突然だが、国際補助語は鉄道に例えることができる。周りに何もない場所の鉄道は乗る理由がなく誰も乗らないように、学ぶ理由がない言語も積極的に学ばれない。
つまり、新たに鉄道の線路を敷くときは、どんな線路を敷いてどんな電車を走らせるか(言語設計)だけでなく、まずは電車に乗る理由になる周りの街や施設(学ぶ理由となる文化やコンテンツ、必要性)をどうするかも考えるべきであろう。
よく国際補助語の議論に挙げられる言語の簡単さとか中立性などは、車両の完全バリアフリー化や車内放送の多言語化のようなもので、言語を広めるための「十分条件」であっても「必要条件」ではないように思う。
そしてこれは私の主観だが、今は完璧な鉄道(言語)を敷いたら、街は自然発生するだろうという考えの人が多いように感じられる。確かに街は自然発生することもあるが、そのためには生きるのに必要な水道や電気などのインフラ、住みたくなるデパートなどの施設が必要である。同じように、国際補助語も新たな文化やコンテンツの種となる作品や居心地の良いコミュニティを用意する必要である。このように、国際補助語は言語(鉄道)と文化圏(街)を同時に創っていくことが大切なのではないだろうか?
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