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形式意味派生論!!

あぶすと

本稿は、述語論理を土台にした人工言語が「同一の意味核から派生語を体系的に生成しにくい」という問題を抱えていることを指摘し、試論としてその解消に向けた枠組みを提案します。

まず、ロジバンをはじめとした述語論理に基づく言語の問題点を指摘します。次に先行研究として、クワインおよび黒田らの議論を参照しつつ、名詞化に伴う意味の派生を整理します。最後に、それらの論点を踏まえて以下の四点を主張します。

  • 私たちは状況に基づいて、「もの」と「こと」に言及する。
  • 「もの」の命名には事実基盤命名役割基盤命名がある。
  • 私たちは随伴者に言及することで「こと」を個体化することができる。
  • 随伴者は現象本質を橋渡しする。

述語論理は不完全である

述語論理は、言語を分析するうえで強力な道具です。例えば「走る」を run(x)、「猫」を cat(x) のように表せば、関数適用や量化などの操作によって、文の意味を合成的に組み立てられます。現代の形式意味論では、この種の意味表示が広く用いられており、述語論理を土台にして言語そのものを設計しようとする試みもあります。例えば、ロジバンや近年では ToaqVarhil などがその例です。

しかし、私たちの言語使用を「分析する」という観点ではこの方法に大きな問題がない一方で、人工言語のように言語使用を「構成する」という観点に立つと、意味を主として「述語」だけで組み立てようとする設計には、いくつかの困難が伴います。

代表的な問題として、ひとつの意味核から自然に派生するはずの表現(派生語・関連語)を、体系的に生成しにくい点が挙げられます。結果として、本来なら同じ語彙系列として揃うべき言い回しが、場当たり的に別語彙へ分裂してしまい、表現の予測可能性が下がります。

語彙設計における派生の困難

具体的には、「AはBを食べる」という述語を用意すれば、B側に焦点を当てて「食べられるもの」(=「食べる」の目的語になりうるもの)を表せます。ところが「食べ物」という概念は、単に「食べられるもの」とは一致しません。なぜなら、食べ物は必ずしも食べられるとは限らず、場合によっては食べる前に廃棄するような場面も考えられるからです。そのため「Aは食べ物である」のような別の述語を用意したくなります。

実際、ロジバンでも「食べる」citka と「食べ物」cidja が別の語根として制定されています。ところが一方で、「飲み物」は「飲む」pinxe という語根で表現されます。「食べ物」が用意されていて、「飲み物」が用意されていないのは、語彙設計として一貫した基準が見えません。英語など一部の自然言語の区別を、そのまま写してきただけではないでしょうか。

同様の揺れは他にも見られます。

  • 「先生」は「教える」ctuca から作るのに、病院や学校は独立した語根として用意されています。
  • 「寝る」は sipna なのに、「ベッド」は ckana という別語根です。

このようにどこまでを「同一語根からの派生」として処理し、どこからを「別語彙」として切り分けるのかが一貫して規則化されていないと、語彙体系としての予測可能性が下がり、「同じ概念から派生した表現にするべきでは…?」という不満が生まれやすくなります。


ロジバンにも穴はあるんだよな…?

また、「はじロジ」執筆などで日本でのロジバン普及に関わってきた「おかゆ」氏は、かつて「ロジバンには穴は存在しないっぽい」と述べました。

ここで言われているのは、ロジバンに「穴がある」に相当する表現がまったく存在しない、という話ではありません。「穴が空いている」という状態を表す述語はあるのですが、日本語の「穴」のように、それ自体を“対象として取り出す”仕方が、言語体系として用意されてないのではないか、という問題提起です。

私はこの提起には、少なくとも二つの論点があると考えています。

1. 「穴が空いている」という状況から「穴」というものが取り出せるのか?

第一の論点は、述語を中心に意味を構成する関係主義的な体系では、いわば「名辞」的な存在者が初めから想定されていないのではないか、という疑問です。「穴が空いている」という状況から、その参与者を取り出す操作で、「穴」という〈もの〉を本当に意味できるのでしょうか。おかゆ氏の言い方を借りれば、ロジバンでは「ドーナツには穴がある」とは言わず、「ドーナツには穴が空いた箇所がある」と言うほかなく、しかも「穴が空いている」がこれ以上分解できない述語として組み込まれているために、「穴」が対象化されにくいのです。

では、〈もの〉として対象化するとはどういうことなのでしょうか。これは形而上学的な議論になってしまい難しい話題ですが、例えば、『穴と境界』で、穴という存在者そのものに目を向けた加地大介氏は、その十年後に書かれた『もの』で、「もの」を以下のように定義しています。

ものであるとは、それぞれ本質・力能・持続に由来する四種類の実体様相をまといつつ存在することである。

──加地大介『もの』, p.264

つまり、「もの」とはそれぞれ本質・力能・過去・未来を表す四種類のモダリティ(形式的には様相論理)で記述されるもののことなのです。「穴」を単に〈穴が空いている〉という状態の参与者として回収するだけでは、そのようなモダリティにコミットできないのではないでしょうか。例えば、「本質」に目を向けましょう。

重要なのは、個体性が成立している以上、それは少なくとも何らかのカテゴリーに属しており、そしてそのような個体性を成立させる最低限の何らかの本質というものを有しているということである。まさしく、「個体」であるためには「何か」でなければならないのである。

──加地大介『もの』,p.138

「穴」を単に〈穴が空いている〉という状態の参与者として回収するだけでは、それが本当に「何なのか what it is」を指示することはできません。種的論理における種に関する述定がなければ、個体xが「穴が空いている箇所」であることは示せても、「穴」という〈もの〉であることは示せないからです。

2. アドホックな実装ではないか?

第二の論点は、より実践的な問題として、実装がアドホックになりやすい点です。

つまり、仮に「穴」を「穴が空いている」という述語の参与者として組み込む方針を採ると、例えば、「傷」や「影」のような概念についても同様の扱いを求めたくなります。しかし「A が B を傷つける」のような述語だけでは「傷」が登場しないため、「A が B を傷つける。C がその傷である」のような追加の構造を、概念ごとに用意することになります。影についても同様に、「A によって B の影ができる。C がその影である」といった形を別途与えることになりがちです。

この手の要求は際限なく連鎖します。結果として、語彙と述語構造が例外だらけになり、その場その場で基準が変わってしまいます。述語論理に基づく言語制作の問題は、述語が多くを捨象していることそれ自体というより、何を捨象し、何を捨象していないかが、概念ごとに曖昧な点にあります。だからこそ、名辞化・派生・概念分解の規則といった追加のモデルを明示的に与えないかぎり、述語論理に基づく言語設計は一貫性を欠き、アドホックになりやすいのです。


本稿の目的

本稿では、述語論理を前提とした意味派生の理論を提示し、先に挙げた言語設計上の問題がどのように解消されうるのかを示します。ここで目指すのは、意味核から派生表現を体系的に生成できる規則を与え、語彙体系の予測可能性と経済性を両立させることです。

ロジバンは、有名なパングラム「5頭の空腹なソビエト牛が庭にいる。 .o'i mu xagji sofybakni cu zvati le purdi 」に象徴されるように、ソ連がまだあった頃に設計された言語です。三〇年が経ち、言語学・言語哲学の側でも議論が積み重なりました。そろそろ論理的言語の新しい可能性が模索されてもよい頃です。本論はそういった試みへの第一歩として書かれています。

またこの議論は、いわゆる「工学言語」に新しい設計原理を与えるだけでなく、一般の言語創作にとってもある程度は有用な見取り図になるはずです。存在論であれ文化であれ歴史であれ、言語が参照しようとするのは、言語の外側にある世界なのですから。


名詞的な意味とは何か

私たちは周りのものに「ラベル付け」をします。「売り物」であるとか「猫」であるとか「赤っぱな」であるとかです。これらは多くの自然言語で名詞として表現されます。しかし、「名詞」とは何でしょうか。

文法の側から見るなら、名詞は統語範疇(型)の一つにすぎません。意味の側から見るなら、(少なくとも普通名詞は)個体を入力に取り真理値を返す〈e, t〉型の関数でしかありません。

しかしそれでも、私たちは「名詞的」な意味というものを考えたくなります。動詞や形容詞は「名詞化」でき、そのとき名詞特有のニュアンスや意味のまとまり方が生じているように感じられるからです。

では、名詞化によってどのような意味が生じるのでしょうか。興味深いことに、名詞化された語には体系的な多義性があることが、様々な研究者によって指摘されてきました。例えばクワインは『言葉と対象』で以下のような多義性を紹介しています。

(動詞由来名詞には)いわゆる“体系的な多義”がある。よくあるタイプの一つは、過程/産物の多義性(Black)で、例えば assignment は「割り当てるという行為」も指せば、「割り当てられたもの」も指せる。

もう一つは、行為/慣習の多義性(Sigwart)で、例えば skater は「いま実際に滑っていて、そのせいで起きているやつ」も指せるし、「スケーター」を指すだけで、そいつはいま寝ているかもしれない。

Quine, Word and Object, Chapter 4 “Vagaries of Reference” の §27、拙訳。

クワインが紹介するように、動詞が名詞化する際には多義的な意味が発生します。assign(割り当てる)という単語が名詞化するときには、「割り当てること」を意味することもあれば、「割り当てられたもの」を意味することもあります。或いは、skate(スケートする)という動詞から「スケートする人」を意味するskaterという名詞を派生させても、その語は多義的に用いられうるのです。


黒田らの論文を読む

このように、名詞化には何種類かの多義性があるように見えます。この多義性はなぜ生じ、概念のレベルでどこまで整理できるのでしょうか。

本稿ではそのような問題意識を持つ論文として、黒田航ほか『意味フレームに基づく概念分析の理論と実践』を紹介したいと思います。

概念体系を探る

まず、同論文は、概念体系と言語の関係について、次のような立場を明確にしています。

私たちは概念体系は原則として言語から独立して存在するものだと考え,言語と概念体系の対応づけには慎重な態度を取る.

同論文では、このように概念と言語を切り分けたうえで、概念体系そのものに着目します。

さらに同論文は、名詞が意味内容の理解に必要な背景知識を伝えるのに重要な役割を担っていると主張します。述語中心の研究が主流となっている中で、名詞の側から意味を捉えようとするやや珍しい立場です。

言語によって伝えられる意味内容を理解するための背景知識(background knowledge)の重要な部分は名詞的要素によって—しばしば名詞的な要素のみによって—コード化され,伝えられる

ここで焦点になっているのは、名詞が単に対象を指すだけでなく、理解に必要な背景知識の一部を「コード化」している点です。

同論文はこの点を、個体に付与される「属性」の整理として展開し、属性を意味型と意味役割という二つの側面から捉えます。

  • 意味型(semantic type):自然的属性にもとづく分類(自然分類)
  • 意味役割(semantic role):自然的属性では定まらない(状況依存の)分類

アフォーダンス

では、意味役割という分類はなぜ成り立つのでしょうか。それが恣意的でないとすれば、何がそれを支えているのでしょうか。同論文は、その基盤としてアフォーダンスを強調します。

アフォーダンスとは、もともと生態心理学者ギブソンが提唱した概念で、対象が生物に対して提供する利用可能性・機能性のことです。同論文はこの概念を、名詞の意味役割を支える基盤とみなします。アフォーダンスは、対象が提供する利用可能性・機能性として捉えられ、名詞による言及がそうした機能性を呼び出しうる、という見通しが得られます。

モノに価値があるのは,それがアフォーダンスを提供するからである.従って,N(x) という名称をもつモノ x に言及することで x のアフォーダンスに言及可能なのは,おそらく具象物が常に何らかの意味役割=機能性を具現化することを聞き手が知っているからと言える.

私たちがモノに名前をつけて言及するとき、単にそのモノを指しているだけではなく、そのモノが持つ機能性にも言及しています。「椅子」と言えば、ある物体を指すと同時に、「座るためのもの」という機能性を呼び出しているのです。

ただし、ここでいう機能性は物理的なものに限りません。多くの生態心理学者がアフォーダンスを知覚レベルの現象に限定するのに対し、同論文はこの概念をより広く扱います。

多くの生態心理学者はアフォーダンスを知覚のみに結びつけ,認識には結びつけないという用語法に固執するが,私たちはそれには従わない.何かが宝石であるのを知るためには,そのキメ,照り,肌触り,重み,運動モーメントのような知覚的要素も本質的に重要だが,そればかりでなく専門家による鑑定(の見こみ)を必要とする.(中略)従って,私たちは何かが宝石であることは,純粋に知覚の次元で成立する特徴ではないと考える.

宝石は、社会において価値あるものとして機能するからこそ「宝石」と呼ばれるのです。「雑草という草はない」という言い回しが示すように、私たちは対象をそれ自体の性質だけでなく、生活の中での位置づけ・機能によっても分類しています。アフォーダンスは、知覚的な特徴だけでなく、社会的な認定や制度的な文脈をも含みうるのです。

この議論を踏まえ、同論文は意味型と意味役割の関係を次のように整理します。

(…前略…)意味役割の恣意性の幅には一定の制約が課されている.その制約の一部は明らかにアフォーダンスから来るものである

意味型による分類(例:犬/猫/鳥)は、対象の自然的属性に基づく自然分類です。一方、意味役割による分類(例:番犬/盲導犬/ペット)は、対象がどのような状況でどのような機能を果たすかに基づく機能分類です。後者は恣意的に見えるかもしれませんが、アフォーダンス(対象が実際に提供しうる利用可能性)によって制約されています。犬が「番犬」になりうるのは、犬が実際に番をする能力を持つからであり、猫が「番猫」と呼ばれないのは、猫にその機能がないからです。

また、意味役割の中でも、とりわけ「状況」が重要な役割を果たすことが、次のように述べられます。

意味役割が状況(依存)的(situational)な性質をもつのは本質的なことであり,私たちはこの意味で,ヒトの理解における状況という概念の役割を強調する.無意識の状況の区別こそが,視点(perspectives),あるいは把握(construals)を決定すると考えられるからである.

例えば、「運転」という状況を考えてみましょう。この状況から「運転者」や「運転手」といった概念が生まれます。どちらも運転という状況に関わる者を指しますが、その関わり方が異なります。同論文はこの違いを、意味役割の分類として説明しています。

運転者と運転手はどう違うのか

同論文は、意味役割を以下の三種類に分類します。

A. 状況的役割:ある状況における一時的な参与者であること

B. 社会的役割(制度的役割):状況とは独立に恒常的に持つ役割のうち、公的で抽象的なもの

C. 構造的役割:同じく恒常的な役割のうち、具体的なもの

運転者と運転手の違いは、状況的役割と社会的役割の違いにあります。運転者とは、ある個別の状況において実際に運転している者を指します。一方、運転手とは、必ずしも実際に運転しているとは限りません。「運転者となる」という役割を社会的・制度的に期待されている者を運転手と呼ぶのです。同様に、たまたま頼まれて講演しただけでは、単に「講演者」であるにすぎず、「講師」とは言えないのです。

構造的役割とは、〈指〉と〈手のひら〉のような、部品的・構成的な関係を指すものです。

整理しましょう。モノにはアフォーダンス(機能性)があり、それが意味役割という分類を支えています。意味役割は状況に依存し、私たちがどの状況を切り取るか、どのような視点を取るかによって変わります。そして意味役割は、状況的役割・社会的役割・構造的役割という下位分類を持ちます。

このような前言語的な事情が、私たちの言語における名詞の意味を形づくっているのです。


状況の名詞化

ところで黒田らの論文は名詞の意味論を強調していますが、その焦点は主に「状況の内部で、何がどの役割を担うか」という整理にあります。実際、同論文は状況を〈時間・場所・参与者・関係〉の四つ組として定義しつつも、台風や地震のような「状況それ自体」を名詞で取り出す操作については、体系的には論じていません。
さらに、黒田ら自身も注で「火」のように、状況と個体の区別が素直には立たない例に触れており(p.6 注12)、「状況を名詞として取り出す」という操作には未整理の論点が残ることが示唆されています。

ではここから、名詞が「状況」に言及するとき、何が名指されているのかを確認してみましょう。

まず、台風や地震のように状況に言及する名詞が見られます。
そのうえで、状況を名詞で取り出す操作は一様ではなく、文脈によっては、命題・行為・時間・空間・程度といった異なる側面が取り出されていることが確認できます。

  • 命題:彼の殺人を知っている
  • 行為:彼は殺人が得意だ
  • 時間:料理中にはマスクをしよう
  • 空間:彼の料理の中に宝石が入っている
  • 程度:大きさが違う

こうした例を見ると、「状況を名詞で取り出す」と言っても、そこで指されているのは一種類のものではなさそうです。命題・行為・時間・空間・程度といった、異なる側面が名詞として扱われているように見えます。

さらに、名詞化の一つの動機として、「経済性」を挙げられます。私たちは長い言い方を、短い言い方に畳み込んでしまいがちです。例えば「彼の愛を否定する気はない」というときの「愛」は、しばしば「彼が彼女を愛すること」のような内容を短くした言い方として理解できます。

このように名詞は、状況の何らかの側面をコンパクトにまとめ、文の中で扱える形にする機能があります。

ただし、状況に触れているように見える名詞の中には、こうした「まとめ方」とは別種の働きが入り込んでいるように思われます。

  • 〈赤いこと〉と〈赤〉
  • 〈愛すること〉と〈愛〉
  • 〈喉が渇くこと〉と〈渇き〉
  • 〈こだますること〉と〈こだま〉
  • 〈穴が空いていること〉と〈穴〉

「愛を感じる」の「愛」は、単に状況を短く言っただけには見えません。ここでは「愛」が、あたかもひとつの“対象”のように立ち上がり、それを感じたり、失ったり、抱いたりできるものとして扱われています。同じことは「渇きを覚える」や「赤が目に飛び込んできた」にも見出せます。状況を述べているだけのはずが、いつのまにか、何かが名指され、取り出され、指させるものとして扱われてしまいます。

これらはいわば「事態の個体化」と呼べることが起きているように見えるのです。


主張

さて、これらの知見を前提に、私は以下のような主張を行います。

  1. 私たちは状況に基づいて、「もの」と「こと」に言及する。
  2. 「もの」の命名には事実基盤命名役割基盤命名がある。
  3. 私たちは随伴者に言及することで「こと」を個体化することができる。
  4. 随伴者は現象本質を橋渡しする。

なお、本稿の主張は以下の用語法を用います。

  • 時間上に生起する存在者を 事態(eventuality)と呼びます。
  • 事態出来事(event:物事の移り変わり)と 状態(state:物事の持続)に分かれます。
  • 実際に生起した個別の 事態事実(fact)と呼びます。
  • 状況(situation)とは、ある時空間上の事態内部の構造であり、参与者同士の関係を含みます。

1. 私たちは状況に基づいて、「もの」と「こと」に言及する

私たちは周りのものに「ラベル付け」をします。「鍵」だとか「割れ物」だとか「迷惑メール」だとかです。
このようなラベル付けは「状況」に基づいています。私たちは状況に基づいて周りの対象を言及しているのです。

状況に基づく言及には2種類あります。すなわち、ある状況のネットワーク上にあり、状況の参与者であるものとして言及する仕方と、「こういう状況である」という状況そのものに言及する仕方です。

状況の参与者は「もの」として言及されます。状況そのものは「こと」として言及されます。


2. 「もの」の命名には事実基盤命名と役割基盤命名がある

さて、クワインの紹介した、skater の行為/慣習の多義性も、黒田らの提示した、運転者・運転手の区別も本質的には同じ操作対に言及しています。すなわち、私たちは物事を、状況のネットワークの参与者として認識し、ラベル付けをしますが、そのラベル付けには二種類の方法があるのです。

第一の方法は、過去・現在・未来における特定の事態において、実際にその状況の参与者になることを示す方法であり、
第二の方法は、実際にその状況の参与者になるかどうかはわからないが、そのような役割・期待・アフォーダンスをまとうことを示す方法です。

私は、それぞれ〈事実基盤命名〉と〈役割基盤命名〉と名付けています。

この二分法は最初の方に例として挙げた「食べられるもの」と「食べ物」の違いを綺麗に説明してくれます。

すなわち、食べられるものとは、実際に食べられるものであり、食べ物とは、食べられることが想定されている(が、必ずしも食べられるとは限らない)ものなのです。

このような例はいくらでもあります。売り物は実際に売られるとは限らないし、寝床が実際に寝るのに使われるとは限りません。しかしだからといって、少なくとも、それらが「売る」や「寝る」という内容語から派生するべきでないという話にはならないのです。

この「実際にその物事が発生しているか」、「あくまで、そういう期待・社会的役割があるか」の2層で捉え、語彙派生のルールとして組み込むだけで、びっくりするほど多くの単語を整理することができるのです。


3. 私たちは随伴者に言及することで「こと」を個体化することができる

主張2では、状況の参与者を「もの」として命名する方法を見ました。事実基盤命名と役割基盤命名です。しかし、私たちの言語にはもう一つ別の現象があります。先に挙げた例を思い出してください。

〈赤いこと〉と〈赤〉、〈愛すること〉と〈愛〉、〈穴が空いていること〉と〈穴〉、〈こだますること〉と〈こだま〉

これらは単なる「文の省略」ではありません。〈愛すること〉から〈愛〉へ、〈穴が空いていること〉から〈穴〉へと移行するとき、何かが「もの」として切り出されているように見えます。これが、私が「事態の個体化」と呼んだ現象です。

本節では、この現象を説明するために「状況核」と「随伴者」という概念を導入します。

3.1 状況核とは何か

状況核とは、状況から「アスペクト」と「立ち位置」を捨象したものです。

ここでいうアスペクトとは、ヴェンドラーが語彙アスペクトと呼んだ区別です。例えば、「私は毎日言語を作っています」というとき、そこには二種類の解釈があります。

  • 毎日、一つ以上の言語が完成している
  • 一つの言語を作り続けていて、その作業を毎日している この差は「作る」という単語が、作り続けるという〈状態〉を表しているのか、作り終えるという〈出来事〉を表しているかの違いから発生しています。 この区別がない世界では、「傷がある」と「傷つく」が区別されません。

対して、立ち位置とは、どの参与者から状況を見るかということです。例えば、売買という状況には買い手・売り手・商品・対価という四つの参与者がいますが、「買う」と「売る」という二つの語があるのは、行為者の立ち位置が異なるからです。
この区別がない世界では、「傷つく」と「傷つける」が区別されません。

すなわち、「傷がある」、「傷つく」、「傷つける」といった状況を一つの状況核にまとめることができます。

3.2 随伴者とは何か

状況核に対して、随伴者という概念を導入します。随伴者とは、ある状況核について、その状況が成立する前後の「差」として現れる存在者のことです。

随伴者は状況の参与者(項)ではありません。しかし、状況が成立するとき必然的に現れます。熱い/熱するといった状況には「熱」が、走るという状況には「走り」が、愛するという状況には「愛」が随伴します。

ここで本節の主張を述べます。「こと」の個体化の正体は、この随伴者への言及です。〈愛すること〉が〈愛〉になり、〈穴が空いていること〉が〈穴〉になるのは、随伴者に言及しているからなのです。

随伴者には二種類あります。

一つは部分構成的随伴者です。対象を取る行為において、対象の部分として新たに生じるものです。AがBを傷つけた場合、その前後でBには傷が増えています。傷はBに付加された差分であり、部分構成的随伴者です。

もう一つは創発的随伴者です。状態や出来事そのものに伴って創発するものです。落雷が発生した場合、そこにはたいてい「雷」が現れます。これは何かの部分ではなく、状況そのものから創発だと捉えられます。「走り」や「愛」も同様です。

3.3 随伴者と参与者はどう違うのか

随伴者を参与者(項)から区別する基準は「差として現れるかどうか」です。

「料理する」を例に考えましょう。AがBを料理してCができる場合、Cは「料理」と呼ばれます。では「料理」は随伴者でしょうか。

答えはここでは否とします。材料Bは料理Cへとまるごと変化します。Cは「差」として生じたものではなく、変化後の全体です。Bはもともと存在していた存在者であり、形を変えてCになったのです。だから料理は参与者であって随伴者ではありません。

対して〈傷〉の場合、Bは傷つく前から存在し、傷つけられた後も存在し続けます。傷はBの一部として新たに生じた差分です。だから〈傷〉は随伴者なのです。

「火」も同様です。薪は灰になるわけですが、火というのは(火炎が発生するタイプの)燃焼全体によって発生します。その意味で火は創発的随伴者です。

3.4 随伴者からの示唆:「北」について

この枠組みは、述語の設計粒度についても示唆を与えます。

「北にある」という述語を作るべきでしょうか。随伴者の観点からは問題があります。

第一に、「北」が随伴者として現れる状況核が特定できません。「北へ行く」「北を向く」「北を見る」のどれが「北」を必然的に伴う状況核でしょうか。

第二に、「北にある」の前後で「北」が差として現れるわけではありません。北は方位であり、状況の成立によって生じるものではないのです。

したがって「北」は随伴者ではなく、「北にある」から「北」を派生させることはできません。「北」に言及したければ、「xは北である」のような述語を用意するか、方位体系そのものを別の仕方で扱う必要があります。

このように、随伴者という概念は語の生成方法を規定するだけでなく、述語の設計指針も与えてくれるのです。

3.5 「何であるか(what it is)」としての随伴者

冒頭で加地大介の議論を引きながら、「穴が空いている」という述語の参与者として「穴」を取り出すだけでは、それが〈もの〉として成立するのか疑わしいという問題を示しました。

この問題の要点を整理しましょう。述語論理の意味論を考えると、「AはBにある穴である」という述語のAは、「たまたまその時穴が空いている箇所」を指示しているだけかもしれません。運転者が「その時たまたま運転していたやつ」を指しうるのと似た状況です。加地は〈もの〉を本質・力能・持続といった実体様相で特徴づけましたが、述語論理はそのような様相に関心を持ちません。

黒田らの用語では、「人間」や「猫」のような自然的属性によって定まる分類を「意味型」と呼び、状況依存的な「意味役割」と区別していました。では「穴」はどうでしょうか。この問題にどこまで踏み込むかは本稿の主題ではありませんが、随伴者という概念が一つの可能性を示していることは指摘できます。

随伴者は状況の前後の「差」として生じる存在者であり、状況と切り離せません。「穴」は「穴が空く」という状況なしには存在しえないのです。このように定義された「穴」は、「たまたま穴だった」という解釈が成り立ちにくくなります。これは加地が求めた「何であるか what it is」の指示や、黒田らの意味型に近い効果を持っているように見えます。冒頭で紹介した問題意識に対して、随伴者という概念が一つの応答になりうるかもしれません。


4. 随伴者は現象と本質を橋渡しする

「火」という単語を辞書などで調べると、「燃える様子」や「燃える現象」のことだと説明されます。現象とは私たちの世界のうち、見えたり聞こえたり触れたりする側面のことを指します。つまり、火を伴う「有炎燃焼」には私たちの前に現れる「現象」としての側面と、私たちには見えない側面(例えば、化学変化としての燃焼反応など)があるのです。

そのように考えると、私たちは、「火が燃える」という状況をそのまま状況として受け取るだけでなく、その現れが「火」として指示されるのです。このような状況は「火」に限りません。例えば、雷とは、「雷が落ちる様子」のことですし、雨とは「雨が降る」様子のことです。これらの概念は私が、創発的随伴者と呼んだものですが、私たちはこれらを「現象」を指す言葉として運用することができます。

対して、「熱」や「光」という概念を考えてみましょう。これらは「熱い」だとか「光っている」というような現象的状況を説明するために措定されるような概念です。つまり、火や雨とは逆に、眼前で発生している作用を説明するための「見えない対象」を措定しているように見えます。

すなわち、私がここで主張したいことは、随伴者は「見えない本質を見える現象に置き換える」効果があるときと、「見える現象を見えない本質に置き換える」効果があるときがある…ということです。

これらを現象化本質化と呼称することにします。

4.1 現象化と本質化の相互性

重要なのは、現象化と本質化がしばしば同時に行われていることです。例えば、「燃える」という言葉は、たいていの場合、裏側の作用(化学反応など)や目に見える作用(炎の形の移り変わりなど)を全部ひっくるめて表現しており、いわば世界を二重に記述しています。そのため、「火」という随伴者を用いる時には、「現象化」と「本質化」が同時に行われていることがあります。

また、科学の世界では、燃焼反応に対する現れとしての「火」が着目されがちな一方で、比喩の世界では逆に見えている作用に対する「本質としての火」が着目されることが多いです。私たちは目に見えるものから、心の中の「火」や「傷」を見出します。そのような「比喩的な」対象がどれくらい文字通り( literal )に捉えられるべきかは難しい問題ですが、少なくとも本質的な意味での「火」や「傷」が言語に現れる実例として機能しています。

以上を踏まえると、随伴者の役割は明確になります。随伴者は、状況を、私たちが指示し、扱える“もの”へと変換するための担い手です。そしてこの変換は、現象側と本質側をまたいで起きているのです。

figurativeな火とliteralな火

4.2 オブジェクト指向存在論

最後に、ここまでの議論に最小限のモデルを与えます。

随伴者とは、事態を「名指しできる対象」として取り出す操作でした。この操作には、(i)対象として立ち上がった側面と、性質として散らばった側面、(ii)現象として見える側面と、本質として想定される側面、という二つの区別が同時に関わっています。

私はこの二軸をまとめて扱う枠組みとして、グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論(四方対象図式)を採用します。

ハーマンは、対象-性質、感覚的-実在的という2つの軸からなる「四方対象図式」を提案し、「感覚的対象」、「感覚的性質」、「実在的対象」、「実在的性質」の四極の間の相互作用によって世界の様相を説明しようとしました。例えば、感覚的対象と実在的性質の間の作用を〈理論〉、感覚的性質と実在的対象の間の作用を〈魅惑〉と呼びました。

これは私の解釈による例示ですが、例えば眼の前に火があるとしましょう。

私たちは、火という感覚的対象を見て、その裏に燃焼反応という実在的な作用を見出します。火はその形、明るさや熱さを時間とともに変えながら様々な感覚的な性質を見せます。そういった感覚的な対象の裏に光や熱といった実在的な対象を措定します。そして、熱や光といった実在的な対象同士には何かしらの因果関係があり、それが燃焼反応という形で繋がるのです。

四方対象図式における緊張の撹乱

このオブジェクト指向存在論にはいくつもの含意を見出すことができると思うのですが、今回の主題とは外れるのでまたの機会に。


まとめ

本稿では、述語論理に基づいた言語の弱点として、今の派生を上手く扱えない問題を指摘しました。そのうえで、語の派生を「状況」に基づく操作として捉え直し、命名の基準を明示する枠組みを提案しました。

述語の項からの意味派生には事実基盤命名と役割基盤命名の二つがあることを主張しました。

具体的には、状況の参与者を命名する方法として、事実に基づく命名と、役割や期待に基づく命名を区別しました(事実基盤命名/役割基盤命名)。また、状況それ自体が名辞として立ち上がる現象を説明するために、「随伴者」という概念を導入し、事態の「個体化」がどのように生じるかを整理しました。

今回導入した意味理論が絶対的な正解だと主張するつもりはありません。課題も山積みです。しかし、少なくともこの理論を採用することで多くの論理的言語よりも一貫性があり、自然な語彙制定を行うことができます。

例えばロジバンが「食べる」と「食べ物」を別語として区別しているのは、「概念として違うから」というより、自然言語側の区別をそのまま採用した結果だと私は考えます。こうした採用が続くと、語彙体系の一貫性が薄れ、学習や運用に戸惑いが生まれます。

少なくとも、セレン=アルバザード氏が指摘したように、どのような意図であれ言語を作るのであれば文化や存在論といったものを意識することは重要です。私の存在論があなたのそれに、少しでもインスピレーションを与えることができることを祈っております。よい言語創作を!

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