Migdal

コキあ
コキあ

Posted on

文語・口語と芸術

お久しぶりです。コキあです。

人工言語自体は細々と続けていたのですが、migdalの方をサボっていました。受験勉強と人工言語の両方もサボっていた。よくないです。


今回の記事ではキャア語における「口語」「文語」の考察をしていきます。

ご存知の通り、日本語には話し言葉と書き言葉があります。私たちが日常会話で使うのは話し言葉です。

話し言葉の方が文法とか適当で、書き言葉の方が文法に厳格なイメージはみなさんあるのではないでしょうか。

ですが、最近私は話し言葉と書き言葉に別の違いがあるのではないかと思いました。それは、「内容の繊細さ」です。

まずは日本語の話し言葉と書き言葉について分析して、そこからキャア語について考えていきます。


「内容の繊細さ」とは

私が言いたい「内容の繊細さ」がどういうことなのか、具体例を出して説明します。

親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。

こちらは夏目漱石の小説「坊っちゃん」の冒頭の一文です。

みなさんは、こちらを「話し言葉」だと思いましたか。それとも「書き言葉」だと思いましたか。

私は、「書き言葉」だと感じました。

文法が正しく使われているのもそう感じる理由の一つではありますが、私は別の理由でも書き言葉っぽいと感じました。

その理由というのが「内容の繊細さ」です。

例えば、「無鉄砲」なんて語彙、話し言葉で使いますか?

もし話し言葉だったら、「無鉄砲」なんて難しい語彙ではなく「何も考えてない」のような簡単な表現を使う気がします。

「無鉄砲」という語彙と「何も考えてない」という表現は近い意味を持っています。ですが、完全に同じではありません。説明が難しい、微妙なニュアンスの違いが細部にあるでしょう。

この「微妙なニュアンスの違い」を大事にするのが書き言葉、ある程度無視するのが「話し言葉」とも言えるでしょう。


なぜその差が生まれるのか

このような書き言葉と話し言葉の差ですが、どうして生まれるのでしょうか。私は次のように考えました。

まず、話し言葉というのは、主に会話で用いられます。

会話は文章とは違い、言葉だけでなく「身振り手振り」「表情」といった方法で細かなニュアンスを伝えられます。また、文章には存在しない「音程」「強弱」「スピード」といった要素も表現をより繊細なものにします。

そのため、何も難しい語彙を使わずともニュアンスを細かく伝えられるのではないでしょうか。

また、会話は考えてからすぐに言語化することが多いです。そのため、細かいことまで考える余裕がなく、汎用的な表現が多々用いられる、と考えることもできます。それなら会話表現で用いられる語彙が少ないのも納得です。

他にも、難しい語彙を使ってしまっては、聞き手の理解に手間取って会話のテンポが遅くなることも考えられます。

話し言葉が微妙なニュアンスを無視するのはこのような理由があるのかもしれません。みなさんはどう考えますか。


歌詞とかの扱い

例外的な感じで、「歌詞」を挙げます。

大体の曲の歌詞は話し言葉です。アップテンポでテンションが上がるような雰囲気の曲の歌詞が文法を厳密に守っていたら、なんか嫌ですよね。

そんな歌詞ですが、ちょくちょく難しい語彙が登場します。

みなさんも好きな曲を一曲思い浮かべてください。その曲の歌詞にちょっと難しい語彙は登場しませんか?難しい、とまではいかなくても日常会話では使わないような言葉くらいなら、いくつかあるのではないでしょうか。

これは、歌詞はそもそも微妙なニュアンスを表現する必要のある一種の芸術だからでしょう。

話し言葉だからこそ表現できるニュアンスがあるから話し言葉を使う、難しい語彙を使うからこそ表現できるニュアンスがあるから難しい語彙を使う、そういうことではないでしょうか。

まあ、作詞なんて普段しないので想像ですけど。


口語と文語の違いは?

キャア語には「口語」と「文語」という概念があります。口語は日常会話などに、文語は作文やスピーチなどに用いられます。ほぼほぼ「話し言葉」と「書き言葉」と同じ意味です。

口語では単語を頻繁に省略します。例えば、日本語で主語「私」を省略するように、キャア語では主語である「ニャ(「私」という意味)」という単語を省略します。

ですが、省略以外で「口語」と「文語」の差というのはほとんど定めていません。

そこで、キャア語における口語と文語について改めて考えてみることにしました。

口語と文語の本質的な違いは「相手に内容を完璧に伝えるか否か」だと思います。完璧に伝えるなら文語、そうでないなら口語です。

省略が多いと、誤った解釈をされやすくなります。内容を完璧に伝えるのは困難です。だから文語では省略をせず、口語では省略をします。

このように考えたとき、より内容を完璧に伝えるために書き言葉で難しい語彙を使うのは納得できます。


芸術性と口語・文語

キャア語のコンセプトとして「芸術的な言語」というものがあります。(最近は忘れていましたが。)もちろん、キャア語は芸術的な場面だけでなく、日常会話でも公的な文章でも、いつでも使えるものです。

ですが、歌詞について話したように、芸術性について考えると口語と文語の差がわからなくなってきます。

では、芸術について次のように考えてみましょう。

「芸術は、伝えたい内容と曖昧にしたい内容を分けている」

誤った文法を用いたり、一部を省略する(話し言葉・口語風)。そうすることで解釈の幅を持たせたりスッキリしないところに芸術を見出したりする。

その中に登場する難しい語彙が、描かれた世界の一部を鮮明にしてくれる。

この「一部」が伝えたい内容、それ以外が曖昧な内容。そういう考えです。

親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。

「損をする」という表現は、似たような意味を表す他の語の中でもくだけた表現です。話し言葉でも十分使うでしょう。

なぜこのような表現にしたのか、それはこの部分を曖昧にしたかったかもしれません。

このあとの文には、その「損」の具体的な内容が描かれています。そこまで読み進めてもらうため、あえて曖昧にしておく。

口語文語と明確に分けるのではなく、織り交ぜて楽しい文章を作るのも、「芸術」という観点で見れば悪くはないのかもしれませんね。


口語・文語について、そして芸術について。

まだまだ考えられることはたくさんあると思います。実際に芸術作品の一つ二つを作ってみないとわからないこともあるでしょう。

でも、一つ言えることがあります。それは、「サボらずに単語を作ること」。

細かなニュアンスを表す語をたくさん作らなければなりません。キャア語に「文語・口語」という区別があり、「芸術性」を追い求めるなら。

それでは、この辺りで。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

Top comments (0)