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人工言語界隈史

この記事は、語学・言語学・言語創作 Advent Calendar 2024の25日目向けに書かれた記事です。この記事は引用部分を除き、cc0ライセンスです。
間に合わなかったので冒頭だけ載せています。いずれ加筆します

はじめに

 私は2015年ごろに人工言語という概念を知り、ネットでエスペラントやアルカについて調べ、2016年からツイッターアカウントを作成して人工言語界隈と呼ばれている界隈と交流を持ってきました。人工言語趣味を始めたのはつい最近のような気分でずっと過ごしていて、界隈の歴史などは私よりもっと古参の人が勝手に書いてくれるだろうと思っていたのですが、よく考えると9年くらい経っていることに気づいたので、一度日本語圏のネット上の人工言語コミュニティーの歴史を今わかる範囲である程度まとまった文章として残しておきたいと思いました。
 誰にでもアクセスできる歴史があることで、古参しか知らない出来事の有害な神秘性が失われ、一度起こった議論の成果を参照しやすくなり、新参や界隈外の人にとって、制作の参考のみならずさまざまに有用だと思います。

三つの歴史区分

 日本のネット上の人工言語界隈の歴史は大きく三つに区分でき、それはセレン時代、「集団創作時代」、「インフルエンサー時代」であると考えます。
 これらの区分を、時代名、期間、特徴、代表的な言語の要素で表で示すと表1のようになります

表1. 人工言語界隈史の三分法

時代名 期間 特徴 代表的な言語
セレン時代 2005年から2013年 掲示板や個人サイトでの活動が中心。セレンアルバザード氏を中心にした創作集団による「人工言語アルカ」の存在が圧倒的。語彙数や、現実世界からの独立性(セレン氏は「アプリオリ言語」と呼ぶ)を重視するアルカの姿勢は、後の時代から、「セレニズム」と呼ばれ批判される。 アルカ、アスガル語、キロン語、リサトプ語, ノシロ語
創作集団時代(後アルカ時代、悠里時代) 2014年から2017年 Twitterやatwikiが活動の中心。ユーゴック語とリパライン語の世界設定を接続することから始まった「悠里」や、銀河系にひろがる文明と言語を創作する「大宇宙」といった創作集団が、おおむね一人一言語の担当を持って創作を進める。 リパライン語、ユーゴック語、エミュンス語、ダンラハン語、アラズ語
インフルエンサー時代 2018年以降 twitter、discord、migdalを中心にyoutube、VRChatでも活動。「異世界語入門」の出版、アルティハジーク語の朝日新聞への掲載、シャレイア語の言語オリンピック日本予選問題への採用、クイズノックチャンネルへの露出、すきえんてぃあ氏のインフルエンサー化など、個人のメディア露出が増える リパライン語、シャレイア語、オ゛ェジュルニョェーッ語、ワタナベタウン語

セレン時代

 セレン時代は、セレンアルバザード氏が製作し、後に創作コミュニティーが制作に協力した「人工言語アルカ」が界隈の中心だった時代で、アルカが初めて掲示板に登場する2005年から、作者のセレン氏が逮捕収監される2013年まで続きます。
 セレン時代の人工言語の活動は、にちゃんねるの言語学板の「人工言語について語りましょう」シリーズなどのスレ、@chsの「人工言語アルカ板」、 無料レンタル掲示板YYかきこ上の「人工言語憩いの場」、したらばの「人工言語掲示板」での議論や言語の共同制作、twitterでの交流、個人サイトでの製作物の発表によって行われました。
 アルカ以前の日本語圏のネット空間では、ノシロ語や地球語など国際補助語が中心でしたが、セレン氏は国際補助語は時代遅れで文化やコンテンツを持たない言語は学ぶ動機が薄いと批判し、異世界で話されるという設定のアルカを発表しました。また、自ら立ち上げた「新生人工言語論」というサイトで、「人工言語学」と称して人工言語の目的や志向に沿った作り方を体系的に論じました。この人工言語論は、アルカの遠回しな宣伝であると批判されることもありました。また、語彙や文化をなるべく大量に作り込み、アプリオリ(完全オリジナル)を薦めるなど彼の人工言語論の推奨する傾向は、後に「セレニズム」と批判されるようになります。
 セレン氏の影響で、異世界を持ちアプリオリな架空言語の創作を始める人が多く現れました。リパライン語(2011)、シャレイア語(2012)など後に大きな影響力をもつ言語もこのころ誕生しました。

創作集団時代

 創作集団時代はtwitterで出会った個人が、それぞれの言語の世界観を共有した創作集団を結成し、skype通話やオフ会で交流し、atwikiなどのwikiサービスを共同編集し発表する創作形態が多かった時代です。創作集団時代はセレン氏の逮捕でアルカコミュニティーの影響が薄まった2014年から、twitterでの意見の衝突が激しくなる2017年まで続きます。
 創作集団時代前期には、悠里(ユーゴック語、リパライン語、パイグ語、バート語等)や大宇宙(エミュンス語、ダンラハン語、クレリカ(離脱))などの創作集団がありました。悠里は二つの惑星、大宇宙は銀河系を舞台にしています。各創作世界では各参加者がおおむね一つの言語とその言語が話される国や文化圏の創作を担当しました。悠里での「古理字論争」、世界設定共有問題などの設定のすり合わせの混乱、連絡がつかなくなったメンバーの創作の停滞、メンバーの進学や就職でしだいに創作は停滞していきました。このうち、悠里は、FaFsさんのライトノベル「異世界語入門」やパイグ語の架空卓上ゲーム「パイグ将棋」などの個人ベースの創作が中心に継続しました。
 創作集団時代後期には架空地図から発展した想像地図世界、架空国家創作から発展した亜空世界、ミザソーグ語から発展した観測世界などの創作集団が出現しました。これらは、コアとなる創作が一つであるか、最初から集団創作として出発しているため、設定のすり合わせに無理がなく、一つの惑星上で展開されることが特徴です。
 創作集団以外の活動では、この時代に個人によるミニマル言語や冗談言語が流行しました。また、トキポナやイスクイル、ロジバンなどの海外の人工言語を楽しむ日本語圏の人が増えたのもこの時期です。お題をもとに人工言語をつくる人工言語コンペも初めて開催されました。
 創作集団時代の特徴は、創作集団に属すか否かに関わらず、人工言語界隈全体の人数が200人程度であり、ほぼ全員がtwitterで相互フォローであり、空リプとして話題を共有できる環境に依存していました。しかし、2017年に「囲碁たん事件」「個人と界隈事件」「ユーフォニー指数事件」といった界隈内外での衝突があり、それぞれ囲碁たん、藤原安眞さんおよびトルミスナーノさん、すきえんてぃあさんが集団ブロック対象になりました。2020年に「讃岐弁-批判たん事件」「お気持ちブーム事件」があり、人工言語論で対立がありました。これらの時期から、すきえんてぃあさん、トルミスさん、藤原安眞さんなどは、界隈外では知られる存在になりますが界隈からは無視されるようになりました。

インフルエンサー時代

 インフルエンサー時代は、FaFsさんによるリパライン語を扱ったライトノベル「異世界語入門」の出版、トルミスナーノさんのアルティハジーク語、Omizan Sakamotoさんのワタナベタウン語などの新聞やテレビでの紹介、トルミスナーノさんや藤原安眞さんの商業作品での架空言語監修、シャレイア語の言語オリンピック問題への採用やクイズノックチャンネルへの登場、すきえんてぃあ氏のTwitterやYoutube上でのインフルエンサー化により、界隈外にも知られる人工言語創作者が現れるようになった時代です。
 界隈の人口が400人程度まで増加したことと、2017年以降の事件による対立から界隈の相互フォロー率が下がったこと、人工言語の他にも活動域がある人が増えたことなどから、twitterのタイムラインは界隈全体へ空リプつながる場所ではなくなりました。それに伴って、twiiterに加え、discordサーバーや、人工言語創作向けSNSのmigdalを併用して人工言語の創作活動が行われるようになりました。

時代の区分法の補足説明

 これらの時代区分のうちセレン時代が既に用例のある言葉で、「集団創作時代」と「インフルエンサー時代」は私の造語です。創作集団時代は、遊里が代表的な創作集団だったことから「悠里時代」とも呼ばれることがあります。また、セレン氏収監以降の時代を、アルカ関係者は「後セレン時代」と呼ぶことがあります。
 このほかに、アルカの創作コミュニティーに着目すれば、逮捕以前の制アルカ/新生アルカ時代、逮捕以降の俗アルカ時代の区分があります("人工言語アルカの総括" (@slaimsan) )。制アルカ/新生アルカ時代がセレン時代、俗アルカ時代が集団創作時代以降に対応します。
 実際には、これらの時代の特徴は重なりながら連続に変化していったもので、どこかにはっきりとした区切りはありませんが、区切りを設けないと記述できないので区切っています。
 

「セレン時代」の用例

🚩かぱはた🚩 on X: "友達につけてもらった名前をずっと使い続けるという、セレン時代から見られた言語名の形態。" / Twitter https://x.com/yuugokku_2/status/864062448512389120 7:18 PM · May 15, 2017

㆑ on X: "ちょっとアンテナ低いので界隈がどうなってるかわからない (セレン時代は一つの掲示板があってそこを界隈の全体像とみなすことができた)" / Twitter https://x.com/Wartemeinnicht/status/1293721134186106880 10:28 AM · Aug 13, 2020

時代を三区分する用例

想像地図の人 on X: "2012年頃の人工言語界隈と、2015年頃の人工言語界隈と、今の人工言語界隈は、3つともまったく様相が異なる印象。 2012年は牧歌の時代、2015年は紛争の時代、そして今は一体?" / Twitter https://x.com/koridentetsu/status/1562771633277784065 8:59 PM · Aug 25, 2022

ボムさん (「セレン時代」、「悠里時代」、「現時代」で分類していたが、2024-12-25現在アクセスできない) https://x.com/boemboemConlang/status/1708460026044809724?s=20

※「後セレン時代」は記憶では使っていた人がいますが用例を見つけられませんでした。

黎明期の日本の人工言語たち

 日本語圏に人工言語創作を趣味とする人のコミュニティー、人工言語界隈ができたのは2005年前後だと思いますが、それ以前にも日本語圏での人工言語の創作はありました。それらの創作では、欧米の国際語運動の影響にあるもの、更に以前の哲学的言語の系譜にあるもの、視覚言語の試み、アニメ漫画電子ゲーム文化の系譜にあるものなど様々です。これらはまだ互いに影響をそこまで与えず、界隈を形成しているわけではありません。ここではそれらの言語について紹介します。

前国際語運動の国際補助語

 言語を作ったわけではありませんが、明治期には既に国際補助語の発想があったり、紹介がありました。
藤間常太郎, 近代日本における国際語思想の展開, 関西大学社会学論集 1(1), 1967-04, p59

  • 阪谷朗廬の「同文同語」(1874)
    儒学者の阪谷朗廬は、阪谷素名義で1874-06に明六雑誌第10号で、世界の言語の統一について述べている。彼によれば世界の言語には「同ノ妙」「異ノ妙」の両方があるとし、文部省の進めている国語の統一を世界に広げて、国の言語を私用とし、それとは別にどの言語とも異なる、世界の言語の短所を廃して長所を集め、「同文同語」とすれば大益があると説いた。
    阪谷素, 質疑一即, 明六雑誌第十號, 1874-03

  • 新未来記の「旅の言葉」(1878)
    Dr.Dioscoordisのユートピア小説"Anno 2065. Een blik in de toekomst"「西暦2065年」(1865)の日本語訳、近藤真琴「新未来記」(1878)に登場する世界共通語。世界の言語が自然と混ざり合ったもので旅をするときに使うという設定。
    ジョスコリデス, 近藤真琴訳, 新未来記, 1878

    • 白井新太郎のの「万国広話」(1902) 社会極致論という、漢文体で書かれた本に登場する。この本は礼楽をもって世界を統一する理想国家を作るという内容であり、その一部として世界の言語を統一することを説いている。 白井新太郎, 社会極致論 巻下, p56

国際語運動史概観

 日本語圏最初の人工言語ジレンゴやエスペラント協会の発足などを説明する同時代の感覚を理解するための前提知識として、ここで欧米の国際語運動について概略を述べます。国際語運動とは1880年代に起こった主にヴォラピュクとエスペラントによる、国際共通語となる人工言語を広めようとする運動です。ドイツの司祭のシュライヤーが作った世界語ヴォラピュクは、国際語運動を巻き起こしますが、種々の欠点からやがてエスペラントにとってかわられることになります。日本にも伝播した国際語運動は、独自の国際語ジレンゴの誕生や、今に続くエスペラント協会の誕生に関わりました。
 南独コンスタンツのカトリック司祭Johann martin Schleyer(1830-1912)は、Eiauä(アイオワのドイツ風の音写)宛てに送った手紙が綴り間違いのため戻ってきた、という農民の訴えから、特定の音声を表せる国際音声文字の必要を「キリスト教ヨーロッパにとって一つのアルファベットは一つの宗教と同じく必要である[1]」と感じ、1978年に「普遍アルファベット(alphabet universel pour la correspondance internationale et la transcription des noms étrangers)」を発明しました[1][2]。その反響が大きかったことから、自らの仕事に神の意志があると感じた彼は、翌年1889-03-31に世界最初の実用目的の世界語「ヴォラピュク(Volapük, 「世界言語」の意)」を作り始めました。既に高位のカトリック司祭として権力があった彼は、1879-05にカトリック詩学の雑誌「シオンのハープ(Sionsharfe)」で世界語の文法を公開しました。
 ヴォラピュクはすぐにドイツ語圏のカトリック教徒から共鳴者を獲得し。翌年別人による教科書が出版され、続いてオランダ、アメリカに広がり、1884、1887、1889に世界大会が行われました。第二回目から、既にヴォラピュクの国際語としての不満、すなわち語彙のほとんどを英語のみから採り、しかも恣意的の単音に縮約している、シュライヤーが所有権を主張している、等が噴出し、第三回の世界大会後、国際語運動の支持者たちはポーランドの眼科医ザメンホフの作ったより簡単な世界語「エスペラント(Esperanto, 「希望する人」の意)」に興味が移っていきました。
 これらの国際語運動は、英語が支配的な現代では極端な理想主義に感じますが、正書法や出版体制の整備されていない民族語と、ラテン語フランス語ドイツ語英語などの通用語を使い分けていた19世紀末のヨーロッパ人にとって現実味がありました。また、民族語のアイデンティティー獲得につれ、書き表される言語は更に増えていく傾向にあり、ヨーロッパ全体で使える簡単な通用語がなければやがて混乱と破綻が起こるというのは自然な危機意識でした。

[1] 藤間常太郎, 近代日本における国際語思想の展開, 関西大学社会学論集 1(1), 1967-04, p68
[2] Couturat Louis, Leau Léopold, Histoire de la langue universelle, 1903, p129

※ヴォラピュクの歴史についてはフランス語版wikipediaの記事が詳しい

日本国際語運動史

日本ヴォラピュク史

 欧米社会のこのような動きは、日本にも伝わっており、その中で日本最初の人工言語であるジレンゴが誕生することになります。日本に国際語運動が紹介されたのは、第二回ヴォラピュク世界大会(1878)の時期にあたります。刊行物でヴォラピュクを言及した事例について時系列で表2に示します。このうち、読売新聞の1888年初頭の6回の連載は多くの日本に住む人に世界語の概念を普及させました。読売新聞紙のヴォラピュクの宣伝的態度に対して、高橋五郎等が反対論を唱え、谷新太郎読売記者が更に反論を加えました[1]。やがて、より使いやすいエスペラントが紹介されるにつれ、田鎖綱紀、飯田雄太郎、丘浅次郎、下瀬謙太郎、武藤於菟などのヴォラピュク者はエスペラントに転向しました。

表2. 刊行物でヴォラピュクを言及した事例

時期 内容
1878-11 横浜の英字新聞ジャパン・ガゼットによるヴォラピュクの紹介
1886 加藤弘之博士による英語学習雑誌"The Student"第1巻第2号での紹介[1]
1887-12-30 読売新聞の新年号予告での「世界の言語を一統ならしむる」「新語の文典及辞林」の掲載予告
1888-01-03から1888-04-28 読売新聞の新年号に始まるヴォラピュクの解説記事。1ページ全部を用いたヴォラピュクの発音、綴り字、名詞の解説。4/28まで6回の解説を続ける。付録を集めると40ページの冊子となるようになっていた。
1888-01-18 加藤弘之博士による英語学習雑誌"The Student"第3巻第41号での紹介(ジャパン・ガゼットの記事の要約)

[1] 日本エスペラント運動史料 第1 (1906-1926), 1954, p1-p5
参考:藤間常太郎, 近代日本における国際語思想の展開, 関西大学社会学論集 1(1), 1967-04, p72-p74

ジレンゴ(Zilengo)

 ジレンゴは、1888年の読売新聞の連載を読みヴォラピュクを研究し始めた動物学者の丘浅次郎が、ヴォラピュクの問題点を改良するため1889年に考案、1890年に一応の完成をした国際補助語(丘は「中立語」と呼ぶ)です[1]。
 彼は、動物学を志し、学生時代から東南アジアとヨーロッパの言語を学んでいたため、多言語学習者であり、1885-1889年(17-18才)の時点で既に自分用の新文字を考案して使っていました。
 ジレンゴ名詞と代名詞は母音、形容詞はd, k, l、副詞はm, n, p、動詞はr, s, tで終わるという品詞語尾があります。ジレンゴの例文[2]を二つ以下に示します。

Doner me pano 「私にパンを与えろ」
Za ve donos libro 「私は汝に本を与えるだろう」

[1] 藤間常太郎, 近代日本における国際語思想の展開, 関西大学社会学論集 1(1), 1967-04, p75
[2] ローマ字 19(4), 1924, p112

日本エスペラント史

 欧米で国際語運動の主役ががヴォラピュクからエスペラントに移るにつれて、1888-05-02の読売新聞の記事で初めて日本にエスペラントが紹介されました。この記事の主題はあくまで一連のヴォラピュクの話題の一部であり、エスペラント、nal bino、Pasilingue、ソルレソルが紹介されました[1]。記事では、音楽語(ソルレソル)は実用性に欠け、nal binoとpasilingueはヴォラピュクの悪い真似だとし、エスペラントについては宜しいが辞書や文法書がないとして、あくまでヴォラピュクを宣伝しています。実際にこの記事は日本でのエスペラントの普及にはつながりませんでした。日本人で初めてエスペラントを学んだのはジレンゴの作者でもある丘浅次郎と考えられています。彼は1891年のドイツ留学中にフライブルグ市の書店の書棚で偶然Trompterの訳"Samenhof: Die Weltsprache Esperanto"を発見し、学習しました。
 実質的に日本にエスペラントが輸入されたのは1900年以降であり、日本でも読まれていたロンドンのReview of Reviews紙の連載や、1906-05に読売新聞に掲載された黒板博士の談話など複数の経路から徐々に知られるようになったと思われます。1906年は日本のエスペラントにとって象徴的な年であり、二葉亭四迷「エスペラントの話」丘浅次郎「界語の将来」というエスペラントを本格的に扱った論説が登場し、黒板勝美、浅田栄次、安孫子貞治郎によってエスペラント協会が発足しました。
 1906年以降、しばらくエスペラント運動は停滞しますが、1919年、エスペラント協会はエスペラント学会に改組されます。この改組は、第一次大戦後の国際協調路線でエスペラント運動が再び注目を浴び、協会の個人主義的・非事業的性質を改め、組織的・事業的体質にするためでした[2]。
 エスペラントは本来、1905年のブーローニュ宣言で公にされた通り、いかなる命令権者も持たない、思想的に中立な存在でした。ザメンホフ自身は1913年のホマラニスモ宣言で、エスペラントが一個人を直接人類に結び付けることを願う思想を持っていましたが、それは強制されませんでした。しかしながら、エスペラントは次第に政治と切り離せない存在になっていきました。第一次大戦以降、アメリカが超大国として台頭し、英語が公用語としての地位を確立し、国際語運動は下火になりました。1920年代に入り、エスペラント運動は、従来のエスペラント学会に沿う、新渡戸稲造などの国際派路線と、この時期に欧米で興った、労働者を団結させる手段としてエスペラントを捉えるプロレタリア運動と結びついたプロレタリア・エスペランチスト運動、通称「プロエス」影響下の運動へと二つに分派しました。学会は当初、あらゆるエスペランチストをまとめるという立場からプロエスに融和的な態度をとっていましたが、1930年代に入ると学会とプロエスは対立するようになります。この時期に柳田邦夫氏もエスペラントに関心を寄せました。
 1930年代初頭、欧米の国際プロエス運動は、全世界無民族協会(Sennacieca Asocio Tutamonda, SAT)によって組織されており、その支部として、日本のプロエス運動もプロエス協会として1930年に組織化されました。そのころ、SATでは、政治運動から距離を置く「SAT幹部派」と、ソビエト共和国エスペランチスト同盟を中心とし、プロエスの共産化を進める「SAT幹部反対派」で対立を起こしました。対立の結果、SAT幹部反対派がSATから脱退し、新組織の国際プロレタリア・エスペランチスト同盟(Internacio de Proleta Esperantistaro, IPE)を組織する形で分派し、1930年末にかけて共産化が進んでいた日本のプロエス協会もSAT幹部反対派に呼応してプロエス同盟へと改組されます。こうした共産化を嫌い、1932年から1933年にかけて、プロエス同盟創立当時のメンバーが多数プロエス同盟から脱退しました。このころからエスペラント運動は共産主義、アナーキズムに融和的な危険思想ととらえられるようになります。一方でソビエト本国でも、1930年代後半にスターリンの一国社会主義論が台頭したことにより、エスペラント運動が弾圧されるようになりました。また、ドイツでもエスペラントは反ユダヤ主義から弾圧されるようになります。
 一方エスペラント学会は、国際協調愛国主義と呼べるような独特の路線をとるようになります。エスペラント学会は1932-07に日本の内務省と満州国政府宛てに陳情書を送りました。その内容は、内務省へはエスペラントが「機会均等の実を挙げんと云う言語的国際正義の思想」とし日本国に「外交に、学術に、通商に、教育に莫大なる利益を齎す」と説き、満州国へは、いかなる民族のものでもないエスペラントが「貴建国の綱領たる機会均等の精神とまったく一致するもの」であり「貴国の如く言語を異にする諸民族の混住する国に在りては斯語の普及は国内的にも亦莫大なる利益を齎すことになる」と説くものでした。学会のこの路線は、1930年代の日本の体制が国民国家から帝国へ向かうにつれ、多民族融和を許容する、帝国的な国際主義と呼べる路線が生じ、学会もそれに適応しようとしたと読み取ることができます。特に、1930年代の日本帝国は、欧米との協調路線と満州の権益の維持拡大を両立しようとし、反ナショナリズム・民族自決を建前として掲げる満州国という特殊な植民地を抱えていたという、国際語と愛国思想の共存する特殊な条件がありました。しかし、1930年代後半になり、日本が「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」路線をとるにつれ、日本帝国の一部としてのエスペラントの役割もなくなっていきます。
 こうして、1920年代の一次大戦と日露戦争後、大正時代の国際協調主義の高まりから、1940年代の第二次世界大戦までに、日本のエスペラント運動は、国際協調愛国主義、プロレタリア主義、共産主義の主に三つの派閥に分かれたのち、そのいずれもが衰退しました。
 エスペラント関連の年表を表3に示します。

表2. 日本のエスペラント関連の年表

時期 内容
1888-05-02 読売新聞は日本でエスペラントを扱う最初の新聞記事「世界語の票」を掲載。この記事ではスードレー博士の音楽語(Solresol)S. Verheggen博士のnal bino、スタイネル博士のPasilingue、エスペラント氏の言語の四言語を紹介[1]。
1891 丘浅次郎と考えられています。彼は1891年のドイツ留学中にフライブルグ市の書店の書棚で偶然Trompterの訳"Samenhof: Die Weltsprache Esperanto"を発見、日本人として初めてエスペラントを学習する
1900 フランス留学中の樋口勘治郎がトゥールーズ大学のRoul博士に勧められてエスペラントを学習[1]
1902 長崎の英字新聞Nagasaki Pressに海星中学物理化学教師のAlphonse Mistler氏がエスペラント紹介記事を寄稿する。生徒にも教える。
1905 広島高師教授の中目覚がブリュッセル市で偶然エスペラント関連書数冊を入手し学習する。後に欧州でエスぺラントを学んだ大野直枝教授と1909-01に広島エス倶楽部を設立[1]
1902-05から1902-10 ロシアウラジオストク滞在中の二葉亭四迷にエスペラント会会長のPostnikov氏がエスペラント語の教科書の日本語訳出版を依頼、1906年に「世界語エスペラント」として出版される
1903 Nagasaki Pressの記事を読んだ東大助教授の黒板勝美が学習を開始、後にエスペラント運動に加わる
1903年ごろ ロンドンの新聞Review of reviews誌に毎月エスペラントの記事が載る。日本で広く販売されていたため、この時期に日本の知識階級にエスペラントが広く知られるようになったと思われる。
1905-04 東京外語英語主任教授の浅田栄次が卒業式に流暢なエスペラントで挨拶を行い、参列者を驚かせる
1905ごろ 安孫子貞治郎がエスペラントを学ぶ
1906-05 黒板勝美博士の談話の筆記が読売新聞社の薄井秀一氏の好意で掲載される
1906-06-12 黒板勝美、浅田栄次、安孫子貞治郎により、日本エスペラント協会(JEA)が発足(1919にJEIに発展, 1926年に消滅)。
1906-07-21 二葉亭四迷が、神田彩雲閣から「世界語エスペラント」を発行[3]
1906-09-08 JEAにより第1回日本エスペラント大会が東京で開催
1906-11 丘浅次郎が中央公論に「世界語の将来」を寄稿しエスペラントを本格的に紹介。丘は後に、Idiom Neutral, Idoの研究も行う
1919-12-20 小坂狷二により、任意団体日本エスペラント学会(JEI)が発足、JEAの後継となる。1926-07-02に財団法人化。
1922 宮沢賢治がエスペラントを学ぶ
1930-03 東京のプロレタリア科学研究所で第一回エスペラント講習会が行われる。学習者は後に研究ロンド(研究クラブ)を作りプロエス協会へ発展する。
1930-07 日本プロレタリア・エスペランチスト協会(プロエス協会)発足
1930-10 プロエス協会が日本プロレタリア文化連盟(KOPF)に加盟、共産化が進行
1930-12 プロエス協会に日本共産青年同盟が浸透を始める
1931-01-18 プロエス協会を全国的に広めるため、プロエス同盟が発足
1932-07 エスペラント学会が内務省と満州国政府宛てに陳情書を提出。内務省へは「機会均等の実を挙げんと云う言語的国際正義の思想」とし日本に「莫大なる利益を齎す」と説く。満州国へは「貴建国の綱領たる機会均等の精神とまったく一致するもの」とし同様に「莫大なる利益を齎す」と説いた。
1934 宮沢賢治が小説「ポラーノ広場」を発表。岩手県をエスペラント風に呼んだ「イーハトーヴォ」と呼ばれる空想世界が舞台。
1939 日本エスペラント協会により、最初のエスペラント学力検定試験が行われる1
1941-03 動物学者の丘浅次郎が日本エスペラント協会の会誌"La Revuo Orienta"1941年3月号への寄稿"Antaŭ kvindek jaroj"で自作の人工言語ジレンゴによる文を発表。
1946-06-23 小松文夫を委員長に日本エスペラント協会(2)が発足。1906年に発足したものとは別。1950-12-05に消滅

関連リンク

[1] 日本エスペラント運動史料 第1 (1906-1926), 1954, p4
[2] 尹智煐, 1930年代の日本のエスペラント運動と国際関係, 2009-09-11
[3] 二葉亭四迷, エスペラントの話, 1906-09
[4] 正則エスペラント講義録 第1巻 増訂, 1925, p173

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スライムさん

「後セレン時代」は「ポストアルカ時代」とかで出てくるかもしれないです。