Migdal

あづまにゃん@SCJ
あづまにゃん@SCJ

投稿

意味論「絶対境界説」

 (一般)言語が言語足り得る条件に「絶対境界説」を説明に使へると思った。
 抑、絶対境界説とは主に語の意味の説明に用ゐられるものである。一昨日の金曜日に「ストロー問題」で穴の定義を考へてゐた時に思ひ付いた。
 全ての語(といふか、表現や状態や。なので、分も含む)の意味は面或は何かしらの次元の中で連続してをり、絶対的境界で区切られた区画が語として機能する、と考へるものである(全てが連続してゐる必要もなく、近いものが連続してゐると考へた方が良いかもしれないが、抑、考へ方の一つである為理解しやすい様にある程度置き替へて考へてほしい)。

 それでだ、絶対境界の中には絶対性をもつ区画と曖昧性をもつ区画が存在する。
 例へば、「穴」であれば、地面ある「窪んだ所」が穴であり、その窪みの中の「空間」が穴である。この二つを特に使ひ分けすることもないところに於いて曖昧性が発生する。
 逆に、ここでは「空間」を穴とする、と定義すれば絶対性が確保できる(定義自体が絶対性を確保することであるとも思ふが)。
 絶対性と曖昧性の境界は確実に存在し、又、「箸」を「穴」と云はない様に、「穴」であるか「穴」でないかの境界も確実に存在する、といふのがこの「絶対境界説」である。
 因みに、「ストロー問題」の最も妥当な回答は「穴は一つ」。即ち、ストローを数学的な筒と見立て(経験・言語学・観測可能範囲による)、穴を「空間」とする(窪みとは即ち横に地面の様に続いた面があることによって、窪みと認識される為、妥当性が高いのは空間である)ことである。

 さて、本題だが、言語が言語足り得るには曖昧性が存在してもある程度低く、絶対性が語の中心に存在してゐることである。又、それによって言語的な意味の面の多くを覆へることである。
 「穴」の場合、二種の絶対性が併存して居たことにより曖昧性が生まれてゐたが、「熱い」は主観的には絶対的だが、客観的には基準が分からずに曖昧であるし、「円」は現実には曖昧でしかない。しかし中には「円い線」といふ(或は数学的に定義される)絶対性がある。又、口語に於いて、同音異義語は曖昧性の対象である。

 絶対性によって、これもかうだらう、といふ曖昧性が生まれるが、その曖昧性は低く、逆に意味の面を多く覆ふことになり、コミュニケーションをある程度支障なく取れる状態となる。
 この状態であり、それに文字や文法や発音や何やらが載ってゐる状態(コミュニケーションもさうだが、やはり言語を形作るものである)が言語である。
 曖昧性で支障が出ても、(辞書を用ゐ)元の絶対性の部分を使へることも加味してもよいだらう。
 個々の絶対的範囲(基本被る)や曖昧的範囲(被らないこともよくある)の認識によって、会話ができたり、逆に、基本的に曖昧的範囲に依って会話をしてゐる為定義が必要になることもある(が、基本ならないのでコミュニケーションを取れる)。

 この定義でゆくならば、「トキポナ」は言語ではない。或は、非常に曖昧性の高くコミュニケーションを取ることが困難な言語と言ってもよいかもしれない。多くの単語が曖昧性のみで構成されてをり、絶対性を確保する手段もなく、文に於いても解釈を広く取れる状態が多く続くからである。
 又、「アラズ語」も言語ではない。無限の同綴同音語で構成されてをり、即ち、無限の曖昧性をもつといふことである。絶対性も無い。
 逆に、「シャレイア語」は言語(限定的な)である。当然、非常に多くのことを喋れる一般的な言語としては程遠いが、言語でコミュニケーションを行ふ部分を一部覆ってをり、その面ではコミュニケーションに支障がなく、言語と云ってもよい。ただ、多くを覆へてゐない為、言語と云へないとしてもよいので、「未完成言語」と云へる。

 文法や文字の部分を外せば、言語以外にもコミュニケーションや意志を伝へる、といふことで、使へる(音楽や数学など)し、参考にしてほしい。

新しい順のコメント(2)

たたむ
 
a_i profile image
A.I.

前半の穴の話はメトニミー、後半の円の話はプロトタイプに近いかもしれませんね。認知言語学ではこれらを言語使用の基盤となる重要なメカニズムとみなしています。

「限定的な言語」の議論は少し難しいような気がします。それは認識する現実との兼ね合いになるので、どうしても主観というか、普遍的な議論にならないと思います。シャレイア語であれば作者も話者も「この言語はまだ我々の知る現実の一部の知識を表せないことがある」ということを了承していると思いますが、たとえばアマゾンの奥地にいる民族が電気に関係する言葉を全く持たないとして、彼らの生活に電気を活用する機会が全くない場合、それは果たして不完全なのか。逆に、我々の社会からそこに誰かが行ったとして、現地人なら誰でも知っている重要な動植物、建築様式、人間関係などを表す言葉を訪問者が全く持たないと知って、現地人が我々の言語を「不完全な言語」と思うのは正しいのか、というような問題がいくらでも出てきそうです。

たたむ
 
azumanyan profile image
あづまにゃん@SCJ

結局、完成した言語なんて存在しない、といふのはこの不足した単語の観点からも曖昧性からも明らかであり、多くの一般的な会話が成立、それは、知らないことは基本的に一般的な会話には含まれない(知らない程話題に出されない)のだから、やはり、ある程度の線で分けるべきでせう。

未完成は語弊があるかもしれません。新興や発展途上など、終りがないといふ意味で国の様に分けるべきな気もしますね。

言語である基準に、造語力や外来語のと取り入れの力なども考慮すべきかもしれません。