asvikanti'ergertzesti fon panqarnesniumunasch lkurftlesse'd mefoaj, ol «niw niw niw niw niw»
この記事は、語学・言語学・言語創作 Advent Calendar 2025 11日目の記事となります。
ルアンシー語1は、単音節言語として知られている。単音節言語とは、語が基本的に単音節であることを志向し、それを基本構造とする言語のことである。ルアンシー語以外には、パイグ語やケイナトウォク語などがこれに該当すると考えることができる。
このうちパイグ語は、無調も合わせると3つの声調を持つ声調言語である。ケイナトウォク語には声調が存在しないが、音節核を構成する二重母音の許容範囲がルアンシー語より広い。
ルアンシー語には声調がない。また、音節核を構成しうる二重母音の許容範囲がそれほど広くはない。これが意味するところは、ルアンシー語は同音異義語が多いということである。ここでは、ルアンシー語の同音異義語のうち最も有名なもの、"niw"についてみていこう。
意味1『新しい』
niwの語源は大きく二つあり、そのうち古典リパライン語の
"niu"
2「新しい」に由来するものがこれだ。
言いそびれていたが、ルアンシー語はリパライン語族ユミサ語派に属する言語であり、他のユミサ語派の言語と違い、ラネーメ的な影響(ある意味では言語連合と言えようか)を受けていないため、多くの単語が古典リパライン語やエタンセンス語に遡ることができる。
ちなみにルアンシー語には動詞や形容詞といった区別が明確に存在せず、文法論的にはいわゆる「用言」と「体言」に分かれているだけである。その上、一つの単語で用言と体言の両方の意味を持つこともかなり多い。
つまり、"niw"の意味は「新しさ」「新しくする」「新しくなる」「新しい」「新しく」などといった具合になる(動詞の自動詞・他動詞についても、後ろに対格が来るかどうかで判断する)。
つまり、「新しいりんごは新しくなる」などと言いたい場合は、"sootlat niw niw"(りんご 新しい 新しくなる)などという必要があるのだ。
すでにややこしさの片鱗を見せているように思った諸兄もいるだろうが、このような文は、通常は意味論的にナンセンスで使われないので安心して欲しい。新しいりんごがわざわざ新しくなってしまう状況は、ルアンシー人の日常生活であってもそう頻繁に訪れるものではない。
意味2『動詞の否定』
先ほど、"niw"の語源には大きく二つあると述べた。ここからは、その二つ目、エタンセンス語の"nju"または"niu"を語源とするものである。この単語の意味は詳しくは分かっていないが、否定の後置詞を表すものだろうと考えられている。
ここでは、動詞の前にかかってそれを否定する意味を持つ。「食べない」と言いたい場合には、「食べる」"nuow"の前に"niw"をつけ、"niwnuow"とする具合である。「新しくしない」としたければ、"niwniw"とすれば良い。
当然、これは用言でも体言でもなく、否定の接頭辞としてしか機能しない。そのため意味が増殖していく余地はなく、何とも学習者に優しい単語である。
意味3『反対』
しかしそれは当然、同じ語根から別の単語がないことを意味するわけではないのである。同じくnjuから、「反対」「反対する」「反対して」などという意味を持つ単語が存在している。
ちなみに現代リパライン語にも、動詞の否定を意味する
"niv"
と関連性を持っている、
"nives"
「反対する」という動詞が存在している。
つまり"niw niw"とした場合、すでに「新しさは新しい」、「新しさは新しくなる」、「新しさは反対する」、「新しい新しさ」、「反対は新しい」、「反対は新しくなる」、「反対は反対する」、「反対する反対」3。これらの区別をすることができないのである。
ここにさらに否定も加えると、"niw niwniw"となり、「新しいものが新しくならない」のか、「反対が反対しない」のか、はたまた「新しさに反対しない」のか、解釈のバリエーションは加速的に増えていく。
そろそろ頭が痛くなってきた諸兄もいるかもしれないが、まだまだこれからなので頑張って耐えることを推奨する。
意味4『嘘』
njuから生まれた単語はまだまだある。嘘にまつわる単語だ。「嘘」「嘘をつく」「嘘をついて」などと言った意味が得られる。ちなみに現代リパライン語の「嘘」
"nisa"
は
"nix"
「間違える」の派生単語であり、
"nix"
は"nju"を語源とするという説がある。
「嘘に反対する」という文章は、今まで上で挙げてきた例文よりかなり意味論的に通っており、そう言いたい場面も浮かびやすいだろう。しかしその場合でもやはり"niw niw"というのである。その上この言い方だと、「反対しない」と同じように捉えられかねない。
「嘘に反対する人」と「嘘に反対しない人」とが、たまたま同じ形の文を口にしていたら、例えば裁判の行方はどうなるのだろうか。関係者一同、よっぽど苦労して裁判を行っていると見える。あるいは、優秀な弁護士ほど、"niw"の意味を自在にねじ曲げる高等技術を身につけているのかもしれない。
意味5『質問』
"nju"を語源とする単語はまだある。しかしこれで最後であるから安心して欲しい。質問にまつわる単語である。今までの"nju"系の単語が否定ベースだったのに対し、質問とはやや毛色が違うように見える。
実際に、現代リパライン語の「質問する」という意味を持つ単語である
"nun"
や
"tidest"
は"nju"を語源とせず、ユナ系リパラオネ的価値観からはやや異なっていることが伺える。
ところで、ルアンシー語の『質問』"niw"は、それほど否定的なニュアンスを持っているとは考えられない。派生語"niwprat"は「(中立的な)話し合い」という意味を持っているし、ルアンシーの上院的な立ち位置にある審議院だってこの語を使って表現する。
しかし、とすると余計にややこしい。ここで、我々は"niw niw niw niw niw"と言うことができる。これの表すところは「新しい嘘の質問は反対しない」だろうか?はたまた「新しく反対する質問は嘘をつかない」だろうか?もしくは「反対しない嘘の質問は新しい」だろうか?
もちろんここに挙げた例文は、意味論的に筋が比較的通っている文章を集めたもので、捉え方は無数にあるだろう。ほとんど、組合せ爆発の恐ろしさを示す情報科学の良い問題か何かなのではないかと思いたくなってくる。しかし、実際にこれらは非文ではなく、意味を持っているのである。我々はこれらの意味を区別できないのである。
実際にルアンシー人はそのような悩みを抱えているのか?
はっきり言って、このような言い方しかできない言語は機能不全である。ルアンシー人は当然、これらが区別できるような言い方を持っている。
例えば、「反対する」と言いたい場合は、通常"leemniw"と言うし、「嘘」なら"siiwniw"と言う。「質問」なら"kikniw"とするのが一般的だ。「新しい」は"niw"のみで表すのが普通である。よって、「新しい嘘の質問は反対しない」と言いたい場合は、"kikniw siiwniw niw niwleemniw"とできる4。
現実の言語使用においては、辞書の中で定義できるうちの最悪レベルの曖昧さが、そのまま日常会話に現れることはほとんどない。ルアンシー語でも同様で、久々に参加するアドベントカレンダーで"niw"の面白さについて鼻高々に語りたい人工言語作者でもない限り、"niw niw niw niw niw"のようなよく分からない文章に、わざわざ踏み込む必要はあまりない。一語の語義曖昧性を巡って法廷で言い争う裁判官や弁護士といった不毛なシーンというのも、くだらない三流ドラマでもない限り、基本的には存在しないのである。
「単音節言語」とは何か、もしくは言語をラベル付けする行為について
さて、ここまで「単音節言語としてのルアンシー語」という前提で話を進めてきたが、そろそろこのラベル自体を疑ってみてもよい頃合いだろう。
だいいち、パイグ語もケイナトウォク語も、単音節言語だと何となくグループ分けされながら、複音節の単語を多く持つ。ルアンシー語にしても、"leemniw" や "kikniw" のような形を見れば分かる通り、「絶対に一語一音節」と決めているわけではない。
要するに、「単音節を志向する」と言った瞬間から、それはすでに統計的傾向・あるいはもっと主観的な「何となくの雰囲気の問題」であって、厳密なクラス分けではない。「単音節言語」と「そうでない言語」の境界線は、きれいな一本線にはとてもならない。
最後に我々が認めざるを得ないのは、「単音節言語」という枠組み自体がかなり適当で、あまり意味のない区分であるという元も子もない事実なのである。単音節っぽかろうが複音節っぽかろうが、人工言語というものは、最初に不備があっても、時間をかけた運用の中で、話者が何とかやっていけるくらいにはうまくできるようになっていくものだ。そして観察者(作者を含む)はだいたい、そのうまくできている部分ではなく、うまくできていない部分(のように見えるところ)を面白がるのである。
ルアンシー語については、「同音異義語が多い」というのが、一見際立って(もしくはうまくできていないように)見える。しかし、この言語は合成語を多用する言語でもある。「反対」"leemniw"についても、"leem"というのは「ひるがえる、はためく」といった意味があるし、「質問」"kikniw"の"kik"は「耳、聞く」といったものだ。
自らの言語創作を礼賛する意図ではないが、どうあれ人工言語は続けていくうち「うまくできてい」くのである。
無論その面白さを共有することは構わない。しかしここで我々が本当に考えるべきなのは、「単音節言語とは何か」ではなく、「曖昧さを抱えた人工言語は、どのようにして使用に耐えるようになっていくのか・なったのか」という、もう少し地に足のついたところであろう。
かかる一連の話は一例に過ぎない。言語創作であれ人工言語研究であれ、ラベルや分類に耽溺・安心してしまうのではなく、この種の問いを立て続ける姿勢を共有していきたい。少なくとも、拙小論をここまで読んでくださった諸兄には、そのような姿勢を大事にしていこう、という提案で締めくくらせていただく。
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ルアンシー語の記事を立項していないことに今気づいてしまった。この記事公開に間に合わないため、手遅れである。 ↩
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聡明な諸兄の中には旧リパーシェがハルムに似ていると思った方もいるだろうが、偶然である。ラテン文字とハルムの間でもblenzelの指摘が存在するのだから、ハルムと旧リパーシェの間であってもこういうことは起こり得るのである。 ↩
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それほど精査してこの文章を書いているわけではないため、漏れがある可能性が非常に高い。せっかくなので、諸兄にはいろいろ考えていただきたい。 ↩
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これを「新しく反対する質問」とするか、「新しい、反対する質問」とするかは文脈判断に託されている。しかし、この程度はよくある話だろう。 ↩
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