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『言語が持つ世界観』考_セキアーロ語が抱える課題

『英語はFPS、日本語はTPS』
みなさんはこんな言葉を聞いたことがあるでしょうか?FPS、TPSとはそれぞれゲームジャンルの1つです。
この言葉は『ゆる言語学ラジオ』というYouTubeチャンネルが出した『英語は荒野行動!?日本語に「時制の一致」が要らない理由 #5』という動画に由来します。
https://www.youtube.com/watch?v=UEc3nobDjMk

簡潔に言うと、英語と日本語では、言語の違いからくる『視点』の違いが見られる、という話です。

このたび拙著(拙言語?)セキアーロ語を形作っている最中に、ある1つの問題に直面しました。そしてその原因が、上で話されていることのような『言語の視点』ひいては『言語が持つ世界観』にあるという事に至りました。

言語やそれにまつわる世界観の創作を試みられている、このサイトのみなさまにとっては、この話は興味深いものになるのではないかと思い、こうしてまとめました。読んでいただけたら幸いです。

セキアーロ語の現状

私が製作している言語『セキアーロ語』には、いくつかの特徴があります。今回の話をする上で、把握していただきたいのは以下の特徴です。

  • 原形動詞が完了形である(アラビア語の影響)
  • 基本文法では、主語の代わりに主題を置く(日本語の「は」の影響)
  • 異なる格で意味の近い言葉は、なるべく同じ単語を使いたい(トキポナの影響)。ただし活用はする
  • 辞書が未完成なので、語彙を増やそうとしている

『原形動詞が完了形である』ことの世界観

セキアーロ語の原型動詞に完了形を採用したのは、アラビア語のこの仕様、すなわち最も簡潔な文章で「〜した。」ということを表す様に、一種のシンプルさを感じたからでした。

しかしながら、ここから語彙を増やす、あるいは意味を補完するとなったときに、少し引っかかる部分がありました。
それは、もし動詞から派生して、例えば名詞を作る場合、『〜した物』という意味になりうるという点です。
もっと極端な言い方をすれば、セキアーロ語は原型動詞に完了形を採用した時点で『動詞を含むあらゆる品詞が原型=完了形になりうる』ということになります。
大げさに聞こえるかもしれませんが、セキアーロ語はトキポナの影響で、違う各や品詞でも単語の使い回しができることを前提としています。別の品詞から動詞を導くように、動詞から別の品詞を導くことも『できる』状態にしたいのです。こうなると、必然的に他のあらゆる品詞は動詞が持つ完了相を引き継ぎ得るのです。

では「〜した物」という意味では何が問題なのでしょうか?
結論から言うと、神が生まれるという問題が発生します。

例えば「空にある物」という言葉を作りたいとします。このとき、動詞が完了形であるという原義をもとに作ると、その言葉は実際には「空へ行った物」「空に上げられた物」「空に置かれた物」みたいなニュアンスのものとして出来上がると考えています。
その『〜した』とは、いつ、どこで、だれが『〜した』のでしょうか
つまり、「〜した物」という言葉は、その原義として、5W1Hと『〜する前の状態』まで問われてしまうのです。「昔こういうことがあったから、これは『〜した物』って呼ばれるんだよ」という説明が必要になるということです。
そしてこの話が発生するとなると、その内容もなるべくシンプルな中身に抑えたくなります。そうしようとした場合、それら説明に対して『参考となる事象の抽象化・架空化』『行為者の習合』をすることになります。そしてこれの行き着く先は、あらゆる事象は神(架空の行為者・観測者)によって用意され、観測されたという神話を持つ、一神教の世界観なのではないかと、私は思い至りました。

ここでの結論を雑にまとめると完了形が原形の言語=一神教的世界観ということになります。

『主題』の世界観

他方で、セキアーロ語は『主語』ではなく『主題』を扱うという特徴を持ちます。セキアーロ語は基本的に文型分類だとSVOになるのですが、このSが動作主・主格とは限らないと言うことです。加えて、このSは省略も可能です。
この特徴は日本語の「は」に触発されて搭載した特徴です。

冒頭の動画でも説明されているように、日本語はTPS、すなわち俯瞰的な視点を持った言語です。
俯瞰は『神の視点』とも言いますから、一見すると一神教的な価値観にそぐうように見えますが、これは勘違いです。日本語の視点を別の言葉で言うと『多視点的』です。つまり特定の位置から観測をしていないのです。
一神教的な視点と対比するなら、アニミズム視点とでも言いましょうか。

日本語で「AはBだ。」と言う時、Aは主題です。「は」という係助詞を通じて『掲げられる』のがAです。この部分、すなわち「Aは」というところに主観は入りません。「Bだ。」という述部ではじめて話者の意見を出します。
つまり、このAに入るものは、(よっぽどの偏見を持った文脈でない限り)誰から見ても、どの視点から見てもAであるものでないと、会話が成立しません。
今、「Aである」と書いたのがお分かりですか?そうです。先述の話と対比するなら、日本語の単語の原義は「〜である物」なのです。

例えば『石』という単語があります。これは『石である物』と言っても同義ですが、『石として生まれた物』『石になった/された物』と言った場合は、日本語的にはそこに含蓄が生まれてしまいます。
『剣』だったら明らかに誰かによって作られた物ですが、『剣にされた物』『剣として作られた物』ではやはり含蓄が生まれてしまいます。一神教的な世界観であれば、そのような含蓄はすべて『神がそうした』ということにすることで解決できるのですが、日本語の場合はやはり『剣である物』が『剣』の意味に最も近いです。
そして、『〜である』ということに5W1H、すなわち神話は必須ではありません。『〜した』と違い、『〜である』は誰でもその場で観測できるからです。

つまり、主題文法をとるならば、主題に入るべき言葉は『〜である』を原義とする言葉なのです。

異なる世界観の衝突

2つの視点のお話をした上で、セキアーロ語の話をします。
セキアーロ語は、先に挙げたアラビア語と日本語のそれぞれの特徴を組み込んだ言語です。

  • 現状、セキアーロ語の動詞の原義は「〜した」である→名詞も「〜した物」を原義にとる/とりうる(アラビア語的、一神教的)
  • 主題文法を使うならば、主題がとるべき原義は「〜である」である(日本語的、アミニズム的)

異なる2つの言語からいいとこ取りのように取り入れた特徴ですが、この2つの特徴を採用したことで単語がとるべき原義を異にし、異なる言語的世界観を生み出してしまっている、というのが、現在のセキアーロ語が抱える問題です。

原義がバラバラでも言語は成立し得ます。例えば、接頭辞や接尾辞で『〜した』が原義の言葉を『〜である』化する、『〜である』が原義の言葉を『〜した』化する、という方法が考えられます。
しかし、そうすると似た意味の言葉が乱立する可能性が高くなりますし、1つ1つの単語に対して「原義が『〜した』なのか『〜する』なのか」という余計な情報が入り込んでしまいます。トキポナのように語彙数は少なくしたいので、原義方針はいずれかに絞りたいと考えています。

なにより、一貫したコンセプトが通った方が、人工言語を作った価値があるというものです。

結び 〜じゃあどうする〜?

『〜した』が原義だと神話が必要になるので、原典の複雑化は必須。
ならば『〜した』をやめて言葉の原義を『〜である』にすることを第一にするしかない?(その場合、動詞原形は副次的に『〜する』になる?)
あるいは『〜である』と『〜した』がシームレスにつながるような言語構造を考える?

……

私は現在、この問いに対して一つの漠然としたアイデアを持っています。
しかしそれは単に思いつきであり、この問題に直面しているという事実のほうが大きいです。

この記事を読んで思ったこと、こんな解決策がいいんじゃないかというアイデア、「一神教関係なくね?」といったツッコミなどがもしあれば、コメントしていただけると大変助かります。単純に、言語が持つ世界観の話に対する感想などでもいただければ、励みになります。

今回の記事は以上です。

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