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コキあ
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芸術的な隠喩は、時に嘘となる。

こんにちは。コキあです。

この記事は私が最近考えたことを書くだけの記事です。雑談みたいな感じにゆるく読んでください。


皆さんは隠喩をご存知ですか?

隠喩とは、比喩の中でも「…のようだ」などの比喩を表す語句を使っていないもののことを指します。

たとえば、「彼女は僕の太陽だ」という文。この文はもちろん、「彼女」が「太陽」そのものであるといっているわけではありません。太陽のように明るくて暖かい存在、的なことを言っているのでしょう。これが隠喩です。


さて、本題です。

私が言いたいのは、隠喩と嘘は何が違うのかという話です。

この連載の一本目の記事を読んでもらうと詳しくわかるのですが、私はこの記事で「『誤り』が『比喩』となることがある」ということを言いました。

では、「嘘」が「比喩」となることがあるのでは無いでしょうか。

ただし、直喩(「…ようだ」とかの語を使う比喩表現)は見ただけで比喩だとわかるため、ここでは省きます。


キャア語には「誤り」という意味の単語「ヒモデデ」と「嘘」という意味の単語「フザイホフ」があります。結構前に作った単語です。

キャア語におけるそれぞれの語義をみてみましょう。(一部省略しています。)

ヒモデデ フザイホフ
意図的に作られたわけではない、事実とは異なる内容。 意図的に作られた事実とは異なる内容。

キャア語において、「ヒモデデ」と「フザイホフ」には意図的か否かの違いしかないのです。

誤り=比喩
誤り=嘘

だったら、

嘘=比喩

ではないでしょうか。


しかし、そうは行きません。

なぜなら、基本的に嘘というのは「嘘の内容を信じ込ませようとする」というニュアンスがあるからです。

彼女は僕の太陽だ。

もしこの文が比喩ではなく嘘なのだとしたら、「彼女」は「太陽」そのものであると信じ込ませようとしているわけです。そんなわけないですよね。


次の図を見てください。(めっちゃ適当に作ったので少し見ずらいです。すいません。)

Image description

私が言いたいのはこの図の内容です。

嘘と比喩は「事実でない内容を信じ込ませようとしているか」という観点で使い分けられている、そう考えています。

ただ、意図的か意図的でないか、事実でない内容を信じ込ませようとしているか否かなんて第三者には伝わりません。

だから、嘘も間違いも比喩も、同じようなものなのではないでしょうか。


それではもう一度、キャア語の「嘘」という意味の単語である「フザイホフ」の語義を見てみましょう。

フザイホフ
意図的に作られた事実とは異なる内容。

キャア語の「フザイホフ」は「比喩」も含むというように解釈することもできます。造語した当時はそんなこと考えてもいなかったのですが、なかなか面白くないですか。


この記事とは関係ありませんが、少しお知らせをしたいと思います。

私はもう中学三年生です。そろそろ受験勉強を本格的に取り組まなければなりません。そのため、更新スピードが格段に遅くなると考えられます。心配はしないでください。

これでこの記事は終了です。

ここまで読んで下さり、本当にありがとうございました。

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