ヴィティロヴェ・ルイチェフ(AlTiveyo:vityirove luichev)(民族暦1728年3月12日~1761年6月27日)はアッシャラダヨの発明家、指導者。アッシャラダヨの初代指導者(1755年~1761年)であり、アッシャラダヨ産業大臣(同年)も務めていた。 発明家として偉大な功績を残し、そのほかにも芸術の面でも功績を残した。また、まめに日記をつけたことで知られる。
生い立ち(1728~1734)
彼は1728年、国土南部アラジェイ県カシキイの貧困家庭に生まれた。 この日はアンタルヴェ彗星が見られ、故に彼は幼少期、旅人を意味するカミレヴォと言う渾名で呼ばれた。
父母共に農奴であり、したがって慣習的にルイチェフも農奴となる。 しかしながら1734年、所有貴族の死亡によって家族全員がニャカイ市の大伯父の家に移り住んだ。
ニャカイ市時代(1734~1745年3月14日)
ルイチェフの大伯父はニャカイ市の学問施設に勤めており、ルイチェフは大伯父から様々な学問を教わることになる。 特に彼は、1740年ニャカイ市に持ち込まれ、当時まだ実用化されていなかった機織り機に興味を示す。
そして機織り機構の効率化に心血を注ぐことになる。 その熱中ぶりはすさまじく、ニャカイ市の住民を機織り機の作動による騒音で怒らせ裁判沙汰になるほどであったという。
そのかたわらニャカイ市を行き交う車(手押し車や牛車)や市場についてのスケッチを残し、気ままな少年時代を送ったとされている。
転機となるのは1743年、ルイチェフが15歳の頃、ニャカイ市にサカヴォ(パームやし様の植物)の樹脂が持ち寄られた。 多くの人間はこれを単なる料理用の油だと考え、安値で購入され使用されていた。 しかしルイチェフはこの油を機織り機のエネルギー源として使用することを考えた。
とはいえ、そう簡単にはいかなかった。ニャカイ市に持ち込まれた油はゆっくりと燃え、一度に多くのエネルギーを取り出すことが出来なかったためである。 しかしルイチェフは諦めず、様々な材料と機器を用いて、後にルイチェフ樹脂精製法と呼ばれる製法を発明した。
(なおルイチェフ樹脂精製法の内容はアッシャラダヨの国家機密である。注意されたし)
彼はその発明をタングネイ市大学に持って行くため、1745年3月14日、家族に別れを告げてニャカイ市を出ることになった。(誕生日の二日後町を出たことが日記に記されている)
タングネイ市時代(1745年~1755年)
タングネイ市にたどり着いたルイチェフは期待を裏切られることになった。
大学の人々はルイチェフの発明品を評価しなかったからである。そもそも発表する枠さえ与えられなかった。
ルイチェフはタングネイ市大学に失望した。タングネイ市の酒場へと向かい、そこで彼はある男に出会った。
当時タングネイ市の市民議員であったドゥエテョヴェ・トマゴフである。 結果としてルイチェフはトマゴフと取引をし、ルイチェフは巨額の投資を得たが、同時に市の市民議員派閥に属することになった。
1750年までには、ルイチェフは紡績企業の管理者として、地域有数の資産家となった。 最盛期は、人が一年働いてやっと得られるお金を毎日得るほどだった。 しかしながら彼は金銭を家族に送金し、あるいは他者に分け与え貧しく生きていた。 トマゴフはそのような行動を行っているルイチェフと親密になり、この頃多くの手紙を出した記録が残っている。
1753年、タングネイ市は隣国に宣戦布告される。ルイチェフは後方支援として立候補し、市の軍隊のために多くの資本を捧げた。この戦争は1754年10月まで続いたが、ドゥエテョヴェ・トマゴフ率いる市民議員派閥の行動、「タングネイ市蜂起」によって終結する。
トマゴフは、ルイチェフを蜂起の英雄かつ勇者であるとして、初代産業大臣として任命する。 同時に初代指導者としてルイチェフを推薦し、1755年2月18日、「アッシャラダヨ第一選挙」によって最多票を獲得する。 同年3月1日、正式にヴィティロヴェ・ルイチェフはアッシャラダヨの初代指導者となった。
アッシャラダヨ初代指導者時代(1755年3月1日~1761年6月27日)
ルイチェフはアッシャラダヨを八の県と三の市に分けて、戸籍制度を整えた。 また、耕地に税金をかけ、サカヴォの樹脂を国家から購入。 国家主導で三つの市を工業化し、資産を市民に分配した。
しかしながら彼は、志半ばで斃死する。
現在で言うところの脳卒中とみられている。
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