※ この記事は自然言語であるタミル語について取り扱ったものですが、ここで書かれている内容は継承語話者であるFafs F. Sashimiの雰囲気で書かれています。もし間違っていたら優しく教えてもらえるとありがたいです。
「異世界ファンタジーは異世界語を日本語に訳したものなので、日本文化依存的な表現もまた翻訳に過ぎないのだ」(大意)という理論は、ワナビなWeb小説投稿者が住むSNSにおいて数ヶ月に一回繰り返される「面倒なコメントに対する名案」なのだが、教科書的な翻訳理論に照らし合わせてみると同化的翻訳の局地のように思える。
これは私の勝手な妄想に過ぎないのだが、このような「名案」が何度も繰り返されるのは、異国の書物を簡単に読むことが出来る日本という国の「豊かさ」に原因があるのかもしれない。
なにはともあれ、ここで言いたいのは語学の楽しみの一つとして、自分の母語では簡単には表現できないような意味の遊びが他の言語に見いだせることが挙げられるということである。各々の言語が固有の価値を持つからこそ、翻訳という営みにおいて「名訳」と呼ばれるものが生まれるのである。
そして、そのような個別言語の固有性が、人工言語においても各々の言語の価値を同様に輝かせているのは私のような半端者が言うまでもないだろう。
というわけで、今回の記事ではそんな翻訳の難しさ、個別言語の固有性を表すような一例として、映画に登場するタミル語の言葉遊びについてご紹介させていただこうと思う。
言葉と生活の間には
「V1 Murder Case」(2019、Pavel Navageethan監督)1は暗所恐怖症を患う一人の法医学者と新進気鋭の女刑事のバディが、ある女性ナルマダの殺人事件に迫るサスペンス・スリラー映画である。本作のみならず、タミル映画は言葉遊びの宝庫である。短いシーンに詰め込まれた単語のジャグリングは、まるで紀元前から続くタミル文学の深い蓄積に連なる修辞的豊かさを背後に感じさせる。
ここで紹介するセリフは、ナルマダの彼氏が彼女の携帯電話の表示から始まった痴話喧嘩に登場する。携帯電話に表示されていたのは「誕生日おめでとう」という男からのテキストメッセージであり、彼氏は怒り出すのだが、それはイギリスに居るいとこによるものだった。ナルマダは彼に「言葉と実際の生活の間には多くの違いがあるの」と指摘する。このセリフをタミル文字表記とそのラテン文字転写で以下に示そう。
வார்த்தைக்கு வாழ்க்கையும் நிறைய வித்தியாசம் இருக்கு.
/vaarrtaikku vaazhkkaiyum niRaiya vittiyaacam irukku/
このセリフの最初の2つの単語は、どちらも殆ど同じような音素列であり、違いは流音と語尾に付いている格助詞の違いのみだが、それぞれは「言葉において」と「生活も」という意味合いで、合わせて「言葉と生活の間には」という意味を持っている。
二人はめちゃくちゃ邪険な雰囲気で痴話喧嘩をしているのだが、よくよく見てみればこんな状況でもなお押韻という言葉遊びを忘れていないのだ。
ある言語からある言語に訳すと失われてしまう重要な要素の一つにこの押韻が存在している。ある言語のリズムと詩藻の美しさは、他の言語で写し取ることは非常に難しいのだ。これは日本語の「古池や蛙飛び込む水の音」を訳す際に多くの結果が現れるという有名な話と同じことである。
アリヴと話しましょう!
「Velaikkaran」(2017、Mohan Raja監督)は、主人公であるアリヴァラガン(அறிவழகன்)がチェンナイのあるスラムから身を立てていくうちに、社会の闇に触れた彼が社会変革のため、自分が働く会社の食品偽造に立ち向かうなどして行動を起こしてゆく社会派アクション・スリラー映画である。
作中で、アリヴァラガンは皆からアリヴ(அறிவு)と呼ばれ、親しまれていた。そんな彼はスラム街の中でなけなしの機材を使ってラジオ局クッパムFMを立てることになる。彼がスラム街に呼びかけるラジオの言葉が「アリヴと話しましょう!」である2。このセリフをタミル文字表記とそのラテン文字転写で以下に示そう。
அறிவு தான் பேசுவோம்!
/aRivu taan peecuvoom/
ただのラジオパーソナリティーの掛け声にも聞こえるこの言葉にも言葉遊びが潜んでいる。アリヴは確かにアリヴァラガンという名前の縮約だが、単語として一般名詞の意味も持っている。口語でよく言うフレーズに"அறிவு இல்லாம பேசாதே"(aRivu illaama peecaatee)というものがあるが、これは「詳しいことを一つも知らないくせに適当なことをぺちゃくちゃ喋るんじゃない」というニュアンスの表現である。அறிவுという単語には、理性的な知識というニュアンスがあるため、"அறிவு தான் பேசுவோம்"は文字通りに解釈すれば「智慧と共に話しましょう」というような意味合いにも聞こえてくるのである。
これもまた、日本語に訳すと失われてしまう両義的な表現であり、タミル映画に散りばめられた言葉遊びの一つである。
まとめ
数多くのファンタジーが言語問題に手を触れていないのは物語の本質である感情を動かすという点に言語設定がさほど影響していないように思えてくるからである。先述の通り、日本という言語環境の中では言語的多様性、特にTranslingualism的実践3が少ない環境において、言語が占める物語の舞台装置としての立場はとても少なく、物語に没入してもらうというライティングの技能としても言語が異なるという状況は邪魔くさいと思われがちである。
そんな状況において出版された自著「異世界語入門 ~転生したけど日本語が通じなかった~」(2018)にはある程度の意義が存在すると思っている。それだけではなく、「ことのはアムリラート」(2017)や「ゲーセン少女と異文化交流」(2020-)、「時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん」(2021-)、「なにも理解らない」(2025-)など「言語不通もの」と「人工言語ファンタジー」が複数登場しているのには、目を見張るものがある。
自分も一人工言語作者として、こういった作品に触れながら、ある言語から別の言語へと還元できない純粋な言語の価値というものを追求していきたいと思うものだ。
もしこの記事が面白いと感じてもらえたなら、2021年のAdCで書いた"Xelken xel ken"をどう訳すのか?も面白いかもしれません……
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公式(United India Exporters)がYoutubeチャンネルにて映画全編を公開している。英語字幕もあり、これを日本語に自動翻訳するだけでも十分見られるので興味がある方は是非視聴されたい。 ↩
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公式(Sony Music South)がYoutubeチャンネルにて該当のシーンを含む楽曲「Karuthavanlaam Galeejaam」の動画を公開している。 ↩
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Translingualismに関しては Canagarajah, Suresh. 2017. Translingual Practice, Global Englishes and Cosmopolitan Relations. Routledge が詳しい。日本語で読めるTranslingualism的実践は温又柔氏による『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社, 2018)が手に取りやすいだろう。 ↩
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