レクタール・ド・シャーシュ・レクシャータ(Laikétalé de Chachés Laikéchata)はイェスカ主義に基づく言語思想を展開し、その革新性からシャーシュ学派と呼ばれる集団を形成した。彼らによる主張はユエスレオネ連邦における言語政策の根幹となり、そして様々な言語思想の基礎となっていくことになる。
シャーシュ学派はヴォルシ表現に対しても様々な考察を述べているが、今回はその首領たるレクシャータの議論を見ていきたい。
レクシャータの議論を理解するには、イェスカ思想を少しばかり紹介しなければならない。
イェスカ思想はターフ・ヴィール・イェスカによる思想で、系統的には革新チャショーテの系譜に位置する1。また、ファイクレオネ近代法学の父とも言われるレシェール・ヴェンタフによるレヴェン思想や改革派教法学者であるフィシャ・ステデラフの思想の影響を受けていることが特徴として挙げられる。
初期イェスカにおける重要概念はその主著『教法学的社会主義とその理論』に現れている「主体的統一」と「疎外円環」の二つである。
主体的統一は本来教法学2におけるアレス学派と古典学派の統一を通して、それまでヴェルテール哲学における無限戦争への取り組みから外れていた議論を実際の人間の生における問題である無限戦争への解決へと取り戻そうとする試みであった。イェスカ主義においてはより抽象化された無限戦争に対する装置的概念として捉えられている3。
疎外円環は、単純にいえば「不幸の連鎖」のことである。『教法学的社会主義とその理論』においては次のように定義されている。
自由化した主体はまた新たに生産的な規範を生み出し続けることによって、社会と個人が前進することができる。他者と社会が大切なのは個人が主体化し続けるためであり、中途半端な主体化段階で立ち止まった人間は自己実現を達成できなくなる。自己実現が達成できない人間は不幸に陥り、社会不安や治安悪化を引き起こすなどして社会に影響を与え、更にその影響は社会疎外を引き起こして更に個人の主体形成を阻害する。社会の中の人間が完全なる自由を享受できないのはこの疎外円環構造のためである。
さて、これでレクシャータの議論を理解する準備が完了した。
レクシャータのヴォルシ性表現に対する議論は、ヴォルシ性が個人の主体化において悪影響を与えるという主張から始まる。個人の主体化について、イェスカは「従属化=人称化=主体化」という理論を提示している。これは何かに従属することによって、一方でその何かの主体性の一部を自らの主体性として引き受けるということである。この議論はヴェルテール哲学における「刻印」に由来する。
レクシャータはヴォルシ性表現は個人が主体化のために従属することによって疎外円環を生み出す要素であると考えた。なぜなら、ヴォルシ性表現はシルシに対して時代に常に寄り添った表現として変化しているわけではないからだ。ヴォルシ性表現が歴史自由主義が批判した「歴史の無意味性」に基づく実際の生から遊離した抽象的な正しさを志向するなら、それはヴァスプラードを侵害する以前に同時性のない倫理として押し付けられることになる。そうなると、やはり個人は不幸に陥り、疎外円環へと突入することになる。
こうして、疎外円環を人々から遠ざけるためにはヴォルシ性表現は批判されなければならないことになる。
レクシャータは武人の家庭に生まれ、文武両道の教育を受けてきた。一方で時代に翻弄される人々を見て、融和させることは出来ないのかと思い悩み続けてきた。イェスカ主義はその鍵となって彼女の理論に影響を与えた。
結果的にそれはユエスレオネにおいて主要な考え方となったが、そうでない考え方を提唱した人々ももちろん居た。その一つがレヴェン主義者たちである。次回はレヴェン主義者がヴォルシ性表現についてどう考えたのか紹介していきたい。
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ヴェルテール哲学の批判哲学から生まれたレシュト(リパラオネ民族革命派)のなかでも左派的な勢力を指す。ヴェルテール哲学における歴史の無意味性を批判し、自分たちの歴史それ自体とその記述は自由であるために有意義である(理論の根拠となる)とした歴史自由主義を継承し、リパラオネ民族だけでなく少数者との融和を目指した。 ↩
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リパラオネ教法学。イスラームにおけるフィクフのようなもので、古代から伝統が存在する。アレス学派と古典学派の二大学派が存在しており、これは現世で形容すると聖書学における高等批評と古典的な解釈を支持する教学の関係に近い。 ↩
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『教法学的社会主義とその理論』における「経験主義的法理は古典的な倫理と手をつながなければならない」というテーゼから、その装置的概念は芽生えている。 ↩
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