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サークリネア史1

目次

0. はじめに

私が作っている国の一つであるサークリネア共和国は、私が今メインで作っている言語、サークリネア語を公用語とする国です。その歴史は古く、終末期前(N.T.)約3000年まで遡ります。

この記事では、その歴史を何回かに分けてまとめたいと思います。今回は、文明の発生から国の統一までの歴史をできるだけ簡単に解説します。

1. サリマ文化(N.T.3000〜2000)

サークリネアで、はじめに起こった文化は「サリマ文化」です。
この頃人々は、石器を作り狩りをしたり、独自の紋様「豪師紋様 (ごうしもんよう) 」が施された土器を作ったりと、原始的な生活を送っていました。

豪師紋様の例

豪師紋様の例

2. アリーム文化(N.T.2000〜1820)

サークリネアで次に栄えた文化は、北サークリネアのアリーム地方で栄えた「アリーム文化」です。
人々は、「町」と呼ばれるコミュニティーを形成し始め、その町の長をアンクラと呼びました。

3. レ・ドゥーラ文化(N.T.1820〜1390)

アリーム文化についで発展したのは、「レ・ドゥーラ文化」と呼ばれる文化です。この名称は、レ・ドゥーラ文化の町団跡を初めて発見したクリスチャン・ドゥーラ氏の名前に因んでいます。この時代には、いくつかの町が統合され、「町団」と呼ばれるグループが形成され始めました。今ではブラサシㇲやドルニロクなど、大小30以上の町団があったことが知られています。

4. レ・ムル文化(N.T.1200〜10)

「レ・ムル文化」は、レ・ドゥーラ文化後期から発展し始めた文化です。この頃、隣国のストロクの漂流船により数学の知識が伝えられたことにより数学が大きく発展し、三平方の定理を発見したノロダムトス、3.1という円周率の近似値を算出したイェスカイオスなど、多くの数学者が生まれました。またこの頃、ノップルロンとナキンモダという二つの町団が土地を巡って争いを起こし(ゴウノルの戦い)、両町団ともアンクラが死亡して他の町団に取り込まれています。また、レ・ムル文化という名前は、この時代の遺跡の第一発見者であるリチャード・ハリス氏の愛犬、ムルに因んでいます。

5.サーリ・ハン王朝(N.T.10〜M.T.50)

ダイドノクという町団のアンクラであるサーリ・ハンが北サークリネアを統一し、初の王朝を築きました。ダイドノクは当時最大の領地を持った町団です。他国、特にストロクやエクトルノとの貿易を積極的に行ったので、様々な町団の役人や学者がサークリネアに交流を深めに来ました。ディ・サークが著した「ダイドノク紀行」によると、サーリ・ハンは争いを好まない温厚な人物らしく、他の町団との関係も良好でした。

5.ドン・リーン王朝(N.T.5〜M.T.50)

サーリ・ハン王朝と同じ頃、ジョリコニグという町団のアンクラ、ドン・リーンが中央サークリネアを統一し、王朝を築きました。 ジョリコニグは鉄などの資源が豊富であり、剣や盾、防具などが多く作られていました。 そのため戦いも強く、コニグ・ノス神殿のコラドルの戦いの碑文によると、ジョリコニグの兵士400人対コラドルの兵士1000人の戦いで、ジョリコニグが勝利しました。 また、ドン・リーンは周りから恐れられており、戦闘が好きでアンクラ自ら戦いに出向くほどでした。

6.第一期リーン王朝(M.T.50〜250)

ドン・リーン王朝がサークリネア全域を統一し、初の統一王朝を築いた。200年間4世代にわたりドン一族による世襲制が続き、民衆から重い税を徴収した。コニグという神を崇拝するコニグ教を民衆に広め、アンクラは自らをジョリコニグ(コニグ神の権化)と名乗り、自らの命令に従わなかったり、王朝に背くような行動をとったものを処刑するという恐怖政治を行なった。200年間数々の革命運動が行われたが、全て失敗に終わった。

7.第一ハン王朝(M.T.250〜356)

民衆のリーン王朝への反感が高まり、ハン一族のラスカ・ハンが指導者になって革命を起こした。その頃リーン王朝は、前アンクラの急死により、ネラブ・リーンが12歳という若さでアンクラとなっていた。そのため政治が不安定になっていたのもあり、革命は血を流すことなく成功した。
革命後にはラスカ・ハンがアンクラとなって新王朝が開かれた。また、この状況に納得いかなかったネラブ・リーンの叔父であるアクド・リーンは、南サークリネアにアクド王国を築き王朝の奪還を目論むがアクド王国は30年で滅んだ。

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