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ヴェルダルタ語とティンギトルスの歴史

久々の更新。
世界史も好きなので、ちょっと歴史を考えてみる。
一応言語に関係あるといえばあるけど、関連性が少ない…。(許して)

ティンギトルス島の地図
加工元:Wikimedia Commons

目次

  1. 前史・古代
  2. 中世・近世
  3. 近代
  4. 現代
  5. あとがき

前史・古代

このティンギトルス島に紀元前十世紀には既に人類が住んでいた痕跡が見つかった。石器時代に黒曜石が使われた跡も見つかった。
また、言語面を見てみると、およそ紀元前六から四世紀ほどにヴェルダルタ祖語が成立していたと考えられている。しかし、ヴェルダルタ語が孤立した言語であり、特に固有語がほぼ全く残っていないことから、祖語の研究はまだ進んでいない。

紀元前二世紀ほどにはローマ人との交流が進み、ローマ人からはこの島に住む人々は染まられる者という意の「ティンギートーレース」と呼ばれるようになる。この国の外国からの呼称はこれに由来している(英語:Tingeetors、ロシア語:Ти́нгития (Tíngitija)、日本語:ティンギトルス)。ローマから多くの言葉が借用され、固有語がほぼ置き換わってしまう。しかし、この島の付近は海流が速く、渡りづらかったため、完全にラテン語に置換されることはなかった。それでも、19世紀に入るまでロマンス諸語と誤認されたほどの類似性からも、如何に影響が大きかったか分かるだろう。
ローマ帝国の属州となったティンギトルス島は、他の地中海の主な島であるコルシカ島、サルデーニャ島、シチリア島と同じように、このあとも地中海の要塞として幾度も狙われることとなり、イスラム教徒の手やハプスブルクの手にわたることとなった。

中世・近世

ローマ帝国が崩壊した後は、450年にヴァンダル人に占領され、その後730年からイスラム教徒に支配され、シチリア=ティンギトルス首長国が成立する。この国は1072年までこの地を支配し、ヴェルダルタ語にもアラビア語由来の単語が生まれた。
しかし、11世紀後半からノルマン人によってシチリア島とともにティンギトルス島が占領され、12世紀前半にアラゴン王国に占領される。あまりティンギトルスに注目されることはなく、大々的かつ徹底的にではなかったものの、徐々にアラビア語由来の単語が排除されていき、アラゴンの支配下でなくなったユトレヒト条約が結ばれた18世紀前半のときには、アラビア語由来単語はほぼゼロとなっていたと推定されている。

スペイン継承戦争によって、18世紀前半(1714年程度)ティンギトルス島はハプスブルク家の領土となり、この際に少しドイツ語から流れてきた単語が今も用いられている。しかし、フランス革命戦争の混乱に乗じて、1798年に革命家・思想家のヨアン・シャイニーヴァンが独立戦争を起こし、ハプスブルクはフランスとの戦争に戦力を割かれていたため、また想像以上にヨアンの戦力が大きく強固だったため、この独立を認めた。

ヨアン・シャニーヴァンの肖像画
ヨアン・シャイニーヴァン (1800) (AIに作ってもらいました)

この独立によってこの地で大きくナショナリズムが加速し、後のナショナリズム運動にも影響を与えた。新しくできたこの国、ティンギトルス共和国の初代首相としてヨアンは様々なナショナリズムに基づく改革を行っていった。その例として、これまでヴェルダルタ語ではこの島のことをラテン語由来のティンギトーレス(ヴェ(旧正書法):Tingitóres、ヴェ(新正書法):Tingitōre)と呼んでいたが、それをヴェルダルタ語による「輝ける地」という意味の造語である「ブリリアルシュト」(ヴェ(旧正書法):brilliarshto、ヴェ(新正書法):briliaršto)に改めた。しかし、外国では慣用的にラテン語由来のティンギトルスを今日まで用いている。また、民族の象徴としてヴェルダルタ文字を作ったのもこの一環である。ある逸話によると、ヨアンはこの文字を一晩で作ったという。この文字はイギリスの支配下に入るまで用いられた。

近代

1820年、大英帝国ことイギリスの船がジブラルタル海峡からスエズ運河へと航行する際に、船長及び船員の不注意によりティンギトルス島に乗り上げてしまい、海沿いの住人が数人死亡する事件が発生した。これを被害の受けた村の名前を取って、シャバルニ事件という。当然、これにティンギトルス共和国政府はこれに抗議し、イギリス政府に謝罪と賠償金を要求。しかし、謝罪はされたものの、賠償金は要求していた金額のわずか三分の一しか支払わなかった。共和国政府はイギリスを強く批判するが、それにイギリスは「大英帝国に楯突くのか」と反論し、戦艦を一隻派遣し、島に二度射撃した。これをきっかけに戦争へと発展した。この戦争をシャバルニ戦争という。領土面積や戦力差からもティンギトルスの敗北は明確であり、一ヶ月後、ティンギトルスにはティンギトルス自治領政府が樹立し、イギリスの実質的な植民地となった。その際に、ラテン文字による正書法が発布され、数十年後にはそれが一般的となり、ヴェルダルタ文字はほぼ使用されなくなった。後世では、ラテン文字に変更したのはヴェルダルタ文化を破壊したと見る人も少なくない。
その後の第一次世界大戦ではオスマン帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国に対する地中海の要塞として、マルタと併せて重要視された。
第二次世界大戦中の1940年、イタリアが英仏に宣戦布告した。そして、地理的にも歴史的にもイタリアの領土が相応しいとして、イタリアはティンギトルス島に上陸作戦を仕掛ける。しかし、ティンギトルスは要塞化されており、上陸は跳ね返された。そのままイギリスの軍事拠点となり、終戦の1945年までイギリス以外に占領されることはなかった。
しかし、1946年に共産主義者であるベンディ・セグルが独立戦争を起こした。独立したときにはソビエト連邦に協力するという条件でソビエト連邦の援助を取り付けたベンディは、戦争で疲弊したイギリスに辛勝し、ティンギトルス人民共和国が成立した。こうして、冷戦では東側諸国へとなった。

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ベンディ・セグル (1948) (これもAIです)

現代

1951年、ベンディが共和国首相を辞任したあと、ソ連の圧力によりスラヴ系であるニコライ・カルムが首相の座に就いた。ニコライは強硬的に大きな正書法改革を行った。
主な変更は綴り方と文字についてである。旧正書法はラテン語に基づいた綴りをして、cを[k]や[s]と読んだり、shやchのように綴っていたものを、次のような音素に準拠したものに変えた。

旧正書法 新正書法 発音 備考
c k(a, u, oの前), s(i, eの前) [k], [s] 英語やフランス語に見られるcの発音を音声準拠にした
ch c [ts] [tʃ]が[ts]に音韻変化したため
sh š [ʃ] ハーチェクがついたものはスラヴ系言語の影響
j ž [ʒ] 同上
y j [j] ただし、動詞の語尾のyなど、jにならなかったものもある。
á, í, ú, é, ó ā, ī, ū, ē, ō 長母音
-e(語末) -(なし) [ ] 発音されなくなっていたため。
-è(語末) -e [e] 語末のeは旧正書法ではèと綴られていた。
名詞の語末の子音 (なし) [ ] 名詞に限っては語末の子音も発音されなくなっていた。

また、キリル文字が導入された。これによって、この言語にはヴェルダルタ文字、ラテン文字、キリル文字という3つの別々の表記方法が混在することとなった。導入された当初はほぼ使われていなかったが、初等教育でラテン文字と並行して教えられ、政府からの公的な文章での多くはキリル文字で書かれたため、正式な文章にはキリル文字、そうでない場合(手紙や手書きでのメモ書き等)にはラテン文字という共通認識が染み込まれていった。

1991年、他の東側諸国と同じように民主革命が起こった。ティンギトルスではチェコスロバキアと同じように無血で革命が行われたため、これは調和という意味のヴェルダルタ語を用いてアルモニア革命と呼ばれる。そして、ティンギトルス共和国となった。18世紀に成立した共和国と区別する場合は、あちらは第一共和国、こちらは第二共和国と呼ばれる。
第二共和国政府の公的な文章はラテン文字で書かれることになったが、基本的にキリル文字も併記され、キリル文字も民間でよく用いられているが、初等教育でのキリル文字教育が弱化され、若年層は基本的にラテン文字を用いている。また、インターネット上でもラテン文字のほうが都合がいいことのほうが多いので、ラテン文字が用いられる。

今日では地中海に浮かぶ小さな島国として、EUやNATOにも加盟している。その独特な文化で密かな人気を集め、観光客も少なくない。この独特な文化があるのは、こうやってラテンやイスラム、スペイン、ハプスブルク、イギリス、スラヴと様々な文化が入ってきたという歴史があるからなのだ。

あとがき

結構分量が増えました。言語というのは文化や歴史と結びついていることがほとんどなので面白いですね。ちなみに、個人的な趣味で近現代のほうが他よりも分量が多くなりました。ティンギトルスの設定も明確に決められて満足。それではまた、次はいつの投稿となるのか…。気が向いたときに何か作ります。

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