Migdal

【小説】非存在都市メスラン 第1話「njon pelmju」

その街はあった。この世界の果てかもしれないし、世界の裏側の異次元かもしれないし、どこかの人間の空想の中かもしれない。ただ、その街は確かに存在していた。

深い青紫色の夕闇の下、ひしめく建物の隙間に無理矢理押し込まれたかのように、こぢんまりとした無人駅が建っていた。そこへ伸びる細い単線の線路を、2両編成の気動車が走ってきた。

気動車は無人駅に侵入すると、耳障りな駆動音を立てながら車止めの前でゆっくりと停車した。車内アナウンスもないままドアが開き、空気だけが静かに乗降を行う。

……かのように思われたが、車内には一人だけ乗客が存在していた。2号車中央の3人がけシートの隅に少女が腰掛け、傍の衝立にもたれかかって寝息を立てている。彼女の名前は佐々木真宵。不幸にもこの奇妙な街に迷い込んでしまった中学3年生である。

やがて真宵は静かに目を開けて首をもたげた。外の見慣れない景色を目にすると、彼女はすぐに自分が知らない駅まで寝過ごしてしまったことに気付いた。はっとした表情で鞄を握りしめ、まだぼんやりした頭を抱えて車外へ飛び出す。だが、夕暮れ時の冷たい風に当てられた途端、急速に脳が冴え渡り、彼女は周囲の異様な光景に目を奪われてしまった。

設計図なしに建築したかのように歪なビル群が、狭い単線のホームの両側を取り囲んでいる。まるで、乱雑に積み上げられた積み木の塔のようだ。中には、明らかに重力に反した形状の建物もある。駅のすぐ外に差し迫る建造物と、それらに囲われた狭く暗い空が自らを押し潰そうとしているかのように感じられ、真宵の胸中は瞬く間に不安で埋め尽くされた。

「どこ、ここ……」

そう呟きながら後退り、車内へと戻ろうとする。だが振り向いた時にはもう遅く、気動車のドアは無情にも音を立てて閉まるところだった。

「え、ちょっと待……」

困惑する真宵を他所に、気動車はまた耳障りな駆動音を立てながら、そそくさと駅を出発してしまった。追い縋ろうと何歩か踏み出すも、すぐに無駄だと分かった。彼女は気動車が徐々に遠ざかり、やがてビル群の合間に消えていくのを見ていることしかできなかった。

真宵は仕方なく項垂れるが、すぐに気を取り直し、駅名標を見やる。今は自分がどこにいるかを把握しなければならない。現在地が分かったら、次の列車が来る時間を検索すればいい。

しかしそんな考えはあっという間に打ち砕かれた。塗装のはげた駅名標に書かれていた文字は、ひらがなでもカタカナでも漢字でもアルファベットでもない、見慣れない文字だったからだ。

「韓国語……?」

丸や直線が上下に組み合わさったその文字はハングルを連想させたが、すぐに違うと分かった。真宵は学校の休み時間にK-pop好きの友達が熱心にハングルを勉強しているのを間近で見ていたのだ。おかげで、ハングルにはない形が駅名標の文字に含まれていることは容易に判断できた。

彼女は確かに日本国内の鉄道路線を利用していたはずだった。それなのに、見知らぬ文字が使われる文化圏に辿り着いてしまうことがあるだろうか?

真宵は慌ててスマホを取り出してマップを開こうとするが、すぐに充電切れのマークが目に映った。今度は駅舎に駆け込んでみたものの、コンクリート製の小さな家屋内には人の気配はない上、壁一面のポスターはやはり例の見慣れない文字ばかりだ。悪い夢でも見ているかのような心地だったが、彼女はついに時刻表らしきポスターを見つけた。

だが、そこに時刻はただの一つも書かれておらず、ひたすら空欄が続いているだけだった。

真宵は半ばパニック状態に陥っていた。涙目になりながら駅を飛び出し、どこまでも続くかに思われる異形ビル群の森へと足を踏み入れる。誰でもいいから助けを求めたい。ここはどこなのか、次の列車はいつ来るのか教えてほしい。そんな気持ちで一杯になりながら、彼女は人気のない路地へと声を投げかける。

「あのー、誰かいませんかー?」

いくら呼んでも、返ってくるのは冷たいコンクリートの壁に反響する自分の声だけだ。何度も何度も声を上げながら、歪んだ灰色の建造物の間をすり抜けていく。徐々に黒く塗りつぶされていく空が焦燥感を掻き立てる。真宵は自分の声が次第に掠れ、涙声へと変わっていくのをまるで他人の声のように聞いていた。

どれだけ歩いただろうか。あたりが暗闇に覆われた頃、真宵はビルの隙間で、薄暗い街灯に照らされた小さな公園を見つけた。ぽつんと置かれたカラフルなブランコは、この殺風景な街にはおよそ似つかわしくないようにも思える。一方でその姿は、見知らぬ街で独りぼっちの自分自身と重なって見えた。

真宵は風で微かに揺れるブランコに腰掛け、力なく俯いた。彼女は最早来た道すら分からなくなっていた。人の気配はなく、スマホを使うこともできない。それは現状、帰る手段がないことを意味している。

世界でただ一人、この牢屋のように小さな公園に閉じ込められてしまったかのようだ。家も、学校も、塾も、いつも通っている図書館も、友達とよく行く商業施設も、みんな遠い世界のように感じられる。もう自分は二度と家に帰れないのではないか。そんな考えが脳裏をよぎった。だが同時に、脳内に響き渡った言葉があった。

帰れなくてもいいじゃん?

割れた花瓶。床に散らばった書類。母親の表情。父親の後ろ姿。立て続けにフラッシュバックする光景に、真宵は顔を顰めた。あんな家にいて何になる。苦しいだけじゃないか。そう思うことで、真宵は現在の自分が置かれた状況を何とか受け入れようとした。反面、そんな風に考えてしまう自分がなぜだかとても惨めになって、ついに目から涙が溢れてしまった。

狭く薄暗い公園に、真宵の嗚咽だけが木霊する。悪戯をしたお仕置きに押し入れへと閉じ込められた子どものように、彼女は泣き続けた。無機質なビルの外壁から跳ね返ってくる自分の泣き声を聞くたびに、彼女はますます惨めになって、一層涙が溢れてきた。

やがて時間の感覚を失い、泣く体力も使い果たした頃、ふと真宵はどこからか視線を感じて頭をもたげた。涙に濡れて真っ赤になった顔を横に向けると、見知らぬ少女と目が合った。少女は真宵の右隣のブランコに腰掛け、心配そうに彼女の泣き顔を見つめていた。

ショートカットの水色髪。瑠璃色の目。青いヘアバンドとリボン。髪と同じ水色のジャケット。どの人種にも似つかない整った顔立ち。少女のどこか現実離れした容姿に、まるで漫画やアニメの世界から抜け出してきたかのようだ、と真宵は思った。

しかし夢を見ているような気分も束の間、真宵は思い返した。さっきまでの情けない姿を一体いつから見られていたのだろう? 彼女は途端に恥ずかしくなって、思わず目を逸らしてしまった。二人の間に少々気まずい空気が流れる。真宵が恐る恐る視線を戻すと、少女はゆっくりと口を開いた。

"nolus fi njaluku? fi ti me ti sjon nimis?"

「え……?」

全く聞いたことのない言葉に、真宵は困惑のあまり硬直してしまった。英語はそこまで得意ではなかったが、これが英語でないことはすぐに分かった。だからといって中国語や韓国語でもなさそうだ。それ以外の言語だったなら、彼女にはほとんど判別がつかない。真宵がぽかんとしていると、少女は続けた。

"la fosilpa fi sul njaluku te lussas sun kelan. fi mi sos na no? fi fe nolan?"

真宵は彼女の発言の半分も聞き取れなかった。何か尋ねられているのは分かったが、どう返していいか分からない。少女は真宵の態度からそれを察したように、目を丸くした。

"fi me so taskju njonpelmju? 'A, fi fe MESULAN mi tes, me ti?"

真宵はやはり困り顔を返すことしかできなかった。

少女は顎に手を当てて少し思案した後、何か思いついた様子で真宵に視線を戻した。彼女は胸に軽く手を当てると、真宵の目を見てゆっくりと言葉を発した。

"la, na, HAL, LU."

「ラ、ナ、ハル、ル……」

真宵は何となく促されている気がして、少女の言葉を復唱した。少女は微笑みながら頷き、今度は一息で "la na HALLU." と言った。そこで真宵ははっと気づいた。

「ラナハルル……もしかしてあなたの名前?」

真宵は手で少女の方を指し、「ラナハルル?」と言ってみた。すると少女は首を振って "HALLU" とだけ返した。どうやら「ラナ」の部分は名前ではないらしい。真宵がもう一度少女を指して「ハルル?」と言うと、少女は頷いた。

「ハルル、あなたの名前……。もしかして、『私はハルル』って言ってたの?」

真宵は自らの推測を確かめるべく、少女と同じ仕草をすると、思い切って言葉を発した。

「ラ、ナ、マヨイ。ラ、ナ、ササキマヨイ!」

すると少女は真宵を指して "MAJO'I?" と聞き返してきた。マヨイというよりマヨッイのような発音だが、間違いではない。彼女の推測通り、「ラナ」は「私は」という意味だったようだ。真宵は途端に嬉しくなって、夢中で頷いた。

「そう! マヨイ! ラナマヨイ!」

「la na HALLU. fi na MAJO'I」

「フィナ」というまた新しい言葉が少女の口から飛び出したが、真宵は直感的にその意味を理解できた。恐らく、「あなたは」という意味だ。

「ラナマヨイ、フィナハルル!」

真宵が真似して繰り返すと、少女……改めハルルは笑顔で頷いた。

二人は手を取り合い、何度も互いの名を呼び合った。真宵の頬を伝っていた涙はすっかり乾いて、表情は喜びに染まっていた。ほんの少しの言葉が通じただけだったが、真宵の胸中の不安と孤独感があっという間に解けていくかのようだった。


次回予告

突如として迷い込んだ謎の街。それは現実か、それとも幻想か

未だ困惑する真宵の前に現れたのはやたらでかいウナギ、そしてダウナー少女

彼らの操る謎の言語の全貌が明かされる時、真宵が目にするものとは……

次回 非存在都市メスラン 第2話「hjemu te pje」

迫り来る語彙、覚えきれ! マヨイ!


あとがき

こんにちは、ふぃるきしゃです。先日スマホのメモ帳を漁っていたら、2024年3月頃の日付で書きかけになっていたこの小説を発見し、加筆修正して投稿してみました。書き上がっていたのは「反面、そんな風に考えてしまう自分がなぜだかとても惨めになって、ついに目から涙が溢れてしまった」の部分までで、そこから先は昨日今日で書き上げたものです。

さて、ノリで連載を始めたはいいものの、続きは全然考えてません。真宵は語学も言語学も全く知らないという設定なので、ぐちゃぐちゃに書いた線を見せて「何これ?」を引き出すなんてこともできませんし、今後どうするんでしょうね? まあ第1話を書いておけば、あとは未来の自分が何とかしてくれるでしょう。ではまた!

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