中世ヨーロッパのとある中心街。
道の脇に置かれたベンチの木目は、午後の光を吸い込んで柔らかく温まっていた。
ハテュアはそこに腰を下ろし、通り過ぎる人々の足音を静かに聞いている。
人々の活気や、パン屋から漂う小麦の焼ける香りは、かつて神性を帯びていたハテュアの感覚では捉えられなかったはずの、生者の気配だ。
誰も、神性を失い、エーテルを漏出させ続けるハテュアの姿には気づかない。
もう随分前からそうだ。
善と、悪。明確なようで、うつろい続ける概念。
善良な天使と、邪悪な堕天使──
たった一つの線で世界を分けるのは、いつだって天界の側。
ほっ、とため息をつく。
左目の瞼は、未来を封じるように黒い糸で厳重に縫合されている。
それはかつて未来を見る力を持っていた証であり、愛する人が笑うはずだった“明日”を永久に閉ざす、神の裁きの刻印でもあった。
右目に映る景色は、身体の形を保つ力を失ったエーテルの流出のせいで、どこか滲んで揺れている。
この過去を見る目だけが、彼女が神の意志に背いた、あの美しい罪を繰り返し映し出す。
風に触れられる感覚があるだけで、今のハテュアには十分だった。
かつては届かなかった、この地上の微細な風が、今は彼女を慰めている。
石畳の上に抜け落ちた羽の断片が、視界の端に映り込む。
かつて光を纏った翼は、今は石のように重く折れ曲がり、ハテュアを永遠に天界から引き離す鎖だ。
ふいに、それが遠い記憶の形を呼び起こす。
──「əoβyɔdʲøɳ(お前は間違っている)」
遠い鐘の音のように、天界の主の低い声が蘇る。
裁きの者たちの鋭い視線。
純白の天界の床に、自身の影だけが黒く揺れていた。
ハテュアは、ただその試練の監視者であったはずだ。
だが、死の定めを背負いながらも、運命に抗って生きようとしたあの人の姿は、天界のどんな理よりも、美しかった。
光に焼かれるような断罪の瞬間、彼女はわずかに微笑んでいた。
──「ʝyɛ. ðyɔxɑtʷɚɑʔəʈɤføɛɭaŋ(いいえ。あの人間は、生きていい人です)」
その言葉だけは、今も記憶の奥でくっきりと形を保っている。
監視者としての公正さよりも、一人の天使としての愛を選んだ、たった一つの言葉。
風が頬を撫で、現在に意識が戻る。
——あのとき救った人は、今どこで何をしているのだろう。
無論、左目を封じられた彼女には、その答えを見る術はない。
「あの人が幸せなら、それでいい」
天使語の癖の残る発音で、ハテュアは小さく呟く。
その声も、すぐに風へ溶けて消えていく。
声と一緒に、空気の中へ散っていくエーテルの気配が、今日は少し多い。
宙を舞う光の粒は、彼女自身の存在が罰の終わりに近づいていることを静かに告げている。
──それでも、いい。この罰は、愛する命の対価なのだから。
さて、今日は何をしようか。
ベンチからゆっくりと立ち上がり、折れて重たい羽を引き摺りながら、ハテュアはまた、行く当てもなく街の雑踏へと歩き出した。
Oldest comments (2)
書いた小説に架空言語があったので投稿しました
辞書リンク