「その点○○語ってすげぇよな、××だもん。」 トッポのCMより
分かる。君がそう言いたい気持ちは痛いほど分かるんだ。
でも、それを公の場で口に出してはいけない。
なぜかって?
それって要するに色々と理屈をつけてるだけで「俺が作った人工言語が最強なんだよ!!」って言いたいだけなんじゃないかと。
※他人の作った人工言語をむやみやたらと批判することへの批判をします。
1. 言語に優劣はあるか?
2. 言語学的な正しさは絶対的な基準なのか?
3. 要するに好き嫌いでしょ?
1.「言語に優劣はない」
言語学を志すものが最初に叩き込まれる常識の一つがコレだ。
しかし、果たして本当にそうだろうか?
実際、経済的な視点で見れば英語やフランス語のような大言語が実用的なのは言うまでもないし、学習効率という点だけでいけばやはりラテンアルファベットを使う・言文一致している言語(スペイン語とか?)の方が覚えやすいことは間違いない。
だが、これはあくまでも「何を判断基準にするか」というお話なわけで。
「XXが素晴らしい」という基準さえ生み出せば、あとはそれに当てはめて他はクソという論理を展開できるので、正直この議論自体が不毛に感じる。
できるだけ客観的・中立的な言い方をするなら、言語に優劣があるというより「○○という点において言語Aは言語Bと比べてこういう特徴を持っている(プラマイなし)」という言い方しかできないことになってしまう。
例1:「母音が5個の言語はラテン語と近しいから美しい」
「発音が発音が美しい言語が偉い」という基準を作ったとしましょう。
だがこの「発音が美しい」というのはどうやって決めるのだろうか。
例えば「母音が5個ならラテン語と近しいから美しい」、あるいは「日本語は母音が5個だから美しい」とか。それってあなたの感想ですよね?
(単にラテン語が歴史的にヨーロッパにおいて最も重要な言語だったので、母音がa e i o uの5個であることもついでに「良いこと」、延いては「完璧さ」や「美しさ」と結びつけて考えられるようになっただけ)
つまり、分かりやすく言い換えると、「優劣はある。お前の中ではな」。
チョコが最後までたっぷり入ってるトッポがいいと思う人もいれば、ポッキーやプリッツが好きな人もいる。
2. 言語学的な正しさは絶対的な基準なのか?
このコーナーのためだけにどっからどう見てもクソな架空言語(?)を作ってみた。
・単語
re 私
me 行く
ji 家
ba 魚
tr 食べる
shu あなた
kóo 会う
・例文
Re ji me. 私は家に行く
Shu ba tr? あなたは魚を食べるか?
Re kóo shu. 私はあなたに会う
さぁ、この例文を見て何が問題なのか、言語オタクのみなさんは口角泡を飛ばしながらご説明してくださることだろう。
「全開音節言語っぽいのになんで『食べる』だけtrなんだよ? なんでkóoだけ声調が!?」とか「語順どうなってんだ?」とか色々と悲鳴が聞こえてきそうだが、作者のお気持ちを表明しませう。
A.この言語は明らかに作りかけである。
ま、どう見てもそうだよな()
たまに、何年も人工言語作ってらっしゃるプロの方々(?)が寄ってたかって新人いじめをしているのを見るが、誰しもルーキーのときはあるわけで、初期段階でそれやっちゃうと単にやる気を削ぐだけでは(ド正論)
この時点で完膚なきまでにボコボコにしている方々を見ると性格悪いな〜と思ってしまう。
B.別に現実世界の言語じゃないんだから何でもいいのでは?
実際、どうにかして正当化する理屈さえ思いつけば何でもいいのでは。
というか、日本語も普段の会話では助詞も省略するし語順もテキトーなので、
俺、家帰る。
お前、魚食べる?
この二つあたりは何の問題もないわけで。
*私、会う、お前
これはさすがにおかしい感じもするが、そもそも架空言語なんだし「そういう仕様です。」と言って押し切れば解決。
(全力で屁理屈をこねるなら、この言語の格標示は-∅(ゼロ)であり、re(私)やshu(あなた)は文脈によって主格(私が、あなたが)にも目的格(私を、あなたを)にもなるのだ!!)
はい、論破()
コラム:じーさん語
私の祖父は富士宮の山奥出身で、戦時中も電気もガスも水道もないド田舎で鉄砲でキジを撃ち殺して暮らしており、小学校に通うのにも片道4~5kmとか歩いていたらしい。
さて、そんな中卒の祖父の話す日本語は現代っ子の私から見ると文法が崩壊していた。
〜じーさん語録〜
・日本ガ戦争ガ負けて……
・そこの道ガ入って……
・俺ガ家ガ建って……
全部「ガ」じゃねえか! 他の助詞はどうした?
じーさん語録はこれにとどまらない。
私の祖父ではないが、以前働いていた会社の同僚(70過ぎのおじいちゃん)は「一方通行」のことを「一方交通」と言っていた。通行と交通じゃ漢字も違うやんけ!
ここまで読んで「ハ! 無教養な田舎もんだな」と思った方もいらっしゃるかもしれないが、問題は現実にこうした言語を母語として話す人がいる、ということである。
文法だの何だのの規範は近代に入ってようやく登場したわけで、言語の実情はかなり多様である。
日本語はある程度しっかりした書記言語を持っているが、それでも「雰囲気」を「ふいんき」というような言い間違いは駆逐されないし、方言によって「蛇」を「へーび」や「へんび」と言うような感じで同じ語にいくつものヴァリアントがあるのはむしろ「自然な状態」とも言えるのでは(そういえば私は「自転車」を「じでんしゃ」、「四六時中」を「しろくじじゅう」と発音しているが、それで困った試しもない)
近代国家登場以前の音声言語のみの言葉だったら正しさもへったくれもないように思ってしまう。
3.要するに好き嫌いでしょ?
たぶんね、ここまでこのチラ裏でしかない駄文を読んだ方々の中には、「いや、それは違う!」とか息巻いて全力で僕ちんを論破しようとする人もいらっしゃると思うんだ。うん。
でも……、ちょっと一歩踏みとどまって冷静に考えてほしいんだけど、要するに論理武装さえできればどんなトンデモ言語学でも展開できちゃうわけで。
で、あなたがそれをやりたい理由を突き詰めると、ここに行き着く。
要するに、私の作ってる言語が気にくわないんでしょ?
りんごとみかん、どっちが好きですか?
私はみかんが好きです。
なぜならその方がおいしいから(=極めて主観的な理由)
結論

優劣とか「言語学的に〜」とかじゃなくて、単に好き嫌いで物を語れよ!!
追記
建設的な批判は否定しないです。だが「こうしたらもっとよくなる」と言うにしても言い方の問題はあるし、他人の人工言語をただのマウント取りの道具にするのはいただけない。
小学生が砂場でお城作ってるところに大人がやってきて本格的な砂像を作ってドヤ顔をした結果、小学生が泣いてしまった、みたいなイメージ?
Oldest comments (1)
確かに…こうしたら良くなるって言いがちだな…気を付けないと