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A.I.
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比較できない形容詞はあるのか

以下の内容は、もともとシャレイア語の配信やこの記事が出たあたりに考えていたものですが、なんか途中で「隙あらば自分語り」っぽくなった気がして放置していたものをまとめた文章です。


形容詞は何のためにあるのか

諸言語にある「形容詞1」というものは、大体「性質」を表すような語彙が所属する品詞として立てられるものですが、言語によっては名詞や動詞(にあたるもの)と文法的な区別がほとんどない場合があり、品詞上の区別としては必ずしも言語に必要ではないと言われることもしばしばあります。

一方で、ディクソンの有名な論文2では、すべての自然言語には、たとえ他の品詞の下位分類であっても、何らかの形で文法的に区別されるふるまいを持つ、「形容詞」としてくくり出せるようなグループがあるだろう、ということが主張されています。この論文によれば、多くの言語でそのような「形容詞」は少なくとも以下の場合に使うことができるとされています。

  1. 何かが特定の性質を持つ、と述べる時
  2. 述語の項に含まれる名詞句内で、指示対象を明確にするために主名詞に説明を加える時

また、本題からはそれますが、同論文では通言語的にどういう種類の意味を持つ語彙が形容詞で表現されやすいかを挙げているので、参考までにどうぞ。

Dixon (2004) による形容詞で表されやすいタイプの意味
  • 形容詞の所属語数が少ない言語でも形容詞になるもの
    • 寸法(大きい、高い……)
    • 新旧(古い、若い……)
    • 評価(良い、ひどい、真の……)
  • 語数が中規模の形容詞で現れるもの
    • 物理的・肉体的な性質(重い、熱い、疲れた……)
    • 人間の属性(幸せな、残酷な……)
    • 速さ
  • 語数が多い形容詞で現れるもの
    • 難易度
    • 類似度(同じ、違う……)
    • 適合度(純然たる、ある意味では、普通の……)
    • 量化(すべて、少し……)
    • 位置(上、遠く、北……)
    • 序数

ここからわかるように、ある意味当たり前のことですが、自然言語の中にある形容詞は、実体ではなく属性を表現するために特化した道具として発達したものといえます。ここで実体と言っているのは、モノとか概念とか、あるいは動詞が表すような事態のことで、数えられるような、または数えられなくても境目で切り分けて識別できるような何かのまとまりのことです。

こうした実体は、実世界でひとかたまりになってさまざまな関係を引き起こすものであり、基本的にはどこの言語でも文の中核をなします。しかしながら実体は分解可能ないろいろな性質の集合体です。もっと正確に言うならば、言語の語彙は基本的に抽象化であるため、観念的にいくらシンプルな実体であっても、実世界に顕現する3際にはいろいろな本質的・非本質的な性質がベタベタとついてくるものです。

実体を表す語彙を使って描写を行う場合、ふつうは特定の事例に適用して使っているはずです。例えば「電車が走っている」というのは、ある時ある場所で特定の編成の列車が目の前を通過していることを指して使われることが主でしょう(「哺乳類とは~」とか「生きるとは~」みたいに類そのものを叙述の対象とすることもありますが、それは派生的な用法でしょう)。そうすると、実際に顕現した事例にはあらゆる偶発的な性質が付属しており、それだけを取り出して言及することができれば指示や伝達の面で有益であり(「青い電車が高速で走っている」)、それが形容詞的品詞の有用性の源と思われます。

その形容詞が表すところの属性は、それ自体で知覚はできたとしても、必ず依代となる実体が必要という特徴があります。例えば「赤さ」はクオリア的な意味では安定した概念だと思いますが、赤いものがなければ現れ出ることができません4。それゆえに、実体とは違う種類の抽象概念であり、また品詞としての発生が二次的なことが多いのもうなづけます。

形容詞と名詞・動詞は何が違うのか

形容詞は属性を表す、と書きましたが、詳しく考えると名詞や動詞とは一線を画す種類の記号のように思えます。よくオブジェクト指向の解説で動物や人が例えに出されることがありますが、逆にプログラミング言語で例えるとわかりやすいかもしれません。

犬 {
  名前: 定春
  体長: 170cm
  体重: 300kg
  毛色: 白
}
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この場合、この「犬」に属する実体について、形容詞がどの部分を表すのに用いられるかというと、体長: 170cmのような一行だと思います。例えば、確かに「色が白い」とか「サイズが大きい」という表現も使えますが、最も基本的な使い方では単に「白い」「大きい」のように特定の属性: 値をセットにして一語で表現するのではないでしょうか。後者の「値」だけであれば、「白」のように形容詞以外で表現することが可能であり(つまり実体と変わらない)、「白い」のように形容詞として使う場合は、必ず何らかの暗黙の属性とペアにして実体を叙述する表現となるのではないかと思います。その意味では、名詞や動詞とは「型」が違うというより、「カインド」が違うと言えるかもしれません。

また、上の例のように具体的な数値のようなものが差し込まれた状態の形容詞というのはあまりなく、典型的なのは値がいくつかの漠然とした分類にカテゴライズされたものです。「白い」であれば色: 白で「白」の代わりになるのは限定された数の色名(赤、青など)であり、「大きい」であればサイズ: 大として値に入るのは大・中・小くらいでしょう。

つまり、形容詞の典型的な姿とは、ある種類の属性と、その(限られた選択肢に)分類されたが結合した意味を表すための品詞であると言えそうです。日本語のように形容詞のレパートリーが拡張された言語では、値側にも事実上際限のない種類を認め、属性も詳細化された概念が入った、かなり自由なキー/値の組み合わせが語彙化されていますが、ペアとしての性質は失われていないように思います。

ちなみにこの二重性を基に考えると、「大きさ」のような派生名詞が持つ二重の意味は、属性を取り出して表したもの(色: 白にあてはめた場合のに相当)と値を取り出して表したもの(色: 白に相当)であると捉えることができます。

形容詞にとって比較とは何なのか

最初に挙げた論文集の終章であるハジェクの論文では、比較表現がその言語で形容詞という品詞を識別する基準として使用できるほど、形容詞を特徴づける用法であると指摘されています。この点、日本語では比較表現が動詞や名詞にも適用できる(「~よりも走る」「~よりも大人」など)のでわかりにくいですが、これは世界の言語の中でも特殊な性質であり、英語を含む大多数の言語では形容詞にあたる単語にのみ直接的な比較構文が許されているそうです。

ではなぜ比較は形容詞に独特なのでしょうか? というよりも、どちらかというと、形容詞以外の品詞では比較を表立って扱わないからと言うべきではないでしょうか。英語には「リンゴとミカンを比べる」という言い方がありますが、実体を表す語彙は、何らかのスキーマが提示されない限り、そのまま別の何かと比較しても意味をなしません5。モノとモノを比較する言い方があっても、それは何らかの評価軸を介しているのであり、すなわち共通の属性に投影することで行われていて、そこに必ず形容詞的概念が介在するということでしょう。何かを比較しているつもりで、実は評価軸の定まっていないバーリトゥードになっているというのは、不毛な宗教戦争の特徴ですね(見出し写真とは特に関係ありません)。

さて、そうだとしても、なぜ上に挙げた例でいう体長: 170cmのように、実際の値を記述する形よりも、「大きい」「短い」のような相対的な比較表現が好まれるのでしょうか。これは恐らく、意味の源泉が「差異」にあることと関係しています。例えばこの世のすべてが赤ければ、「赤」という語彙は存在しないでしょう。赤くないものを見たからこそ、それと違って「そういう色」をしたものを「赤」と認知できるわけです。「言語は差異の体系である」とはソシュールの言葉ですが、各物体の長さ、大きさなどの値を測定するのがたとえ簡単であっても、ただ並べて見比べるだけでとっさに「違い」という弁別的意味を抽出できるのが人間の認知であり、それを表現できることが形容詞を立てる本質的な有用性だといえるのではないでしょうか。

では、すべての形容詞は比較可能な差異を表すようにできているのでしょうか。基本的にはそうだと言えます。ただし、その中には異なる類型が認められるのではないかと思われます。例えば、次の図に基づいて、「尺度型」の比較と「近似型」の比較という分類を考えることができます。
尺度型の比較と近似型の比較の図
ここでいう「尺度型」は典型的には尺度のように数直線に還元できるような種類のもので、実世界にはそれぞれの極値が現れることはまずなく、とりうる属性の値はすべてその中間のどこかに存在するという具合です。このように概念化できる形容詞は、必ずある種の比較を内包するともいえます(つまり「大きい」はその分の「非・小さい」を意味する)。例えば比較を含意せずに「この犬は大きい」と言ったつもりでも、それはつきつめると「この犬は思ったより大きい」とか「この犬は日本で見た平均より大きい」とかそのような含意が必ず忍び込まざるを得ないという意味です。

それに対し「近似型」は、実際には特定の比較軸を持っているわけではなく、この世のどこかにある完全な実体を範として、それと性質が完全に一致しないものにも近さを考えることができ、その度合いを比較の対象に持ち出すことができるという種類のものです。例えば「ぴったりだ」というのは完全一致を理想形としますが、それとどのくらい離れているかを比較することができます。そして、「ぴったり」には固有の対比関係があるわけではありません。時間の話か、寸法の話か、相性の話かもわからない、という具合です。ちなみに日本語では「~的」「~らしい」「~っぽい」のような接辞で容易にこの種の語彙を生み出すことができます。

もちろん、複合的な体系もありえますし、同じ語彙でも環境によって前景化する解釈が異なる場合もあります。色は概ね「近似型」に近いので、「この服の方が白く、しかも青い」と言うことはできますが、「この服の方が白く、しかも黒い」というのは一般的には矛盾と理解されるでしょう。それはやはり白と黒が反対概念であるため、その部分が排他的な尺度の拘束を受けるからです。

上の考え方を拡張して、「近似型」を 1 極、「尺度型」を 2 極というように抽象化することもできるかもしれません。実用しうるかわかりませんが、例えば色についても、RGB 色空間のような枠組みで捉えるなら、3 つの極値があって、すべての値(特定の色を表す点)はある成分が多ければ他の 2 成分が少ないという完全に尺度的な運用をする語彙体系が考えられます。

なお、例外について、二分法的に定義された概念には、比較を適用できません。「唯一の」や「本当の」のようなものは定義上全か無かの概念で段階性はありません。しかし「ユニーク」の語源である英語の unique (一意の)が「またとないほど珍しい」という意味に拡張され、語として比較をとることが可能になったように、形容詞はすべて潜在的に比較可能な形に転用しうるとはいえます。

形容詞は比較をどう扱うことができるのか

  1. 日本語では、形容詞自身は比較の意味を入れず、(接頭辞「より~」のような翻訳借用を除けば)何らかの形で比較対象を導入して初めて比較を行っていることが明示されます。印欧語でもインド・イラン語派ではこのタイプがみられるようです。また孤立語性が高い言語では一般にこのような形が期待されます。

  2. 英語のように形容詞を変化させて比較の意味を派生するものがあります(-er, -est)。比較対象を明示しなくても比較の文脈を表現することができます。欧州の言語に共通する特徴で、逆にそれ以外には比較的少ないですが、先の論文集ではアラワク語族のタリアナ語で報告されています。

  3. 中国語(官話)では、述語に置かれた形容詞の原形は「より~」を含意し、逆に比較でないことを表すには修飾語で打ち消す必要があります(「 漂亮 」→「 很漂亮 」)。つまり形容詞の本分は比較であり、常に暗黙の比較対象を想定するという考え方です。先の論文集によれば羌語もこのタイプのようです。

  4. 同様に比較を織り込むなら、形容詞の原形が最上級を意味するような言語も考えられます。このパターンは調べた限りでは確認できませんでしたが、ロマンス語では旧ラテン語 -issimus 由来の語形が通常の比較表現の枠組みからは遊離して「この上なく~」(絶対最上級)を表す語になっているようです。

  5. 先の論文集では、ウォロフ語は数は限られているものの、比較と非比較で語彙が分かれているものがあると報告されています。これを一般化すれば、比較の意味を持つものと持たないものを完全に分離するというやり方もありえます。

  6. そもそも形容詞を主部とした比較表現を形成しないという選択肢もあります。WALS には、日本語で言うと「この家大きくあの家小さい」、あるいは「木と石、石が重い」という構文で比較を意味する例が挙がっており、概ね東南アジアからオーストラリアに多く分布するようです。また、並列での表現力が高い日本手話では「A と B、〈比べて片方を上にする〉」という表現が用いられます。

  7. また、形容詞の意味や環境によって採用する表現方法を変えるということも可能でしょう。

余談ですが、比較表現に入れる形容詞は「大きい」か「小さい」かどちらか片方の語彙を当てる形式が思い浮かびやすいですが、ウェールズ語は形容詞を変化させて一語で「同じくらい~」(同等)を表現することもできます。

どうしてこういうことを考えているのか

ここで述べたような話題は、実はフュトル(嘘語)の形容表現の構文論を検討するうえで考えたことと関係があります。フュトルは統語上、品詞の区別が存在しませんが、他言語で形容詞になるような文をどのような様式に落とし込むかを考えていました。

その結果、フュトルでは性質を表す語の意味内容は、すべてその性質の極致を表すよう統一することとしました。つまり上で述べた「尺度型」に該当する概念の場合、フュトルの語はいわゆる他言語の最上級に相当し、前節の 4. ということになります。例えば、フュトルで「これはあれより右にある」というのは、

  • kyi djä mök väzr.
  • /JU/ /JO/ /O=IU/ /IvOY#/
  • 直.後 照i.後 正接-照ii.前 「右手」.前.二
  • 今ここに 前者から 後者がある 一番右まで
  • 「後者は前者と一番右の間にある」または「後者は前者より一番右に近い」

のような言い方になります。

参考になるかどうかわかりませんが、皆さんもぜひ自分の考えたさいきょうの比較を作ってみてはいかがでしょうか(雑)


  1. 以下、日本語については「形容詞」に形容動詞や連体詞を含めて考えます。 

  2. これが入ってる本は、英語だしめっちゃ高いので買わなくていいですが、実例がたくさんあるので読める機会があれば眺めてみるとアイディア出しに役に立つと思います。 

  3. まあ本当は実世界の存在物に人間が特定の概念ないし語彙を当てはめているわけですが……。 

  4. もちろん、「赤いもの」という類がある、という概念化をすれば実体としてとらえることも可能ですが、その方針が実世界で有用かというとかなり微妙なので(少なくとも自然言語の話としては)差し置きます。 

  5. 逆に、比較を内包した名詞や動詞を大幅に取り入れた言語を作る、という方向性もありかもしれません。日本語の研究では、他の存在との関係を暗に仮定する「非飽和名詞」(「犯人」←特定の犯罪がある、「弟子」←特定の師匠がいる)という概念がありますが、何かの軸で比較する時だけ使う語彙カテゴリを立ててみると、意外に実用性があったりするかもしれません。 

古い順のコメント(2)

たたむ
 
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Atridott

とても興味深い内容ですが全て理解するには相当な知識が必要ですね……精進します

たたむ
 
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A.I.

つぎたしながら書いていて議論の文脈とかいろいろ端折ってるのでわかりにくいかと思いますが、質問などありましたらお気軽にどうぞ…