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八つの次元

言語は語る。しかし何を?

示されうるものは、語られえない。
 ──── ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題 4.1212, 1921年

世界は対象で満ちている。月とか色とか会社とか、あらゆる種類の対象があらゆる粒度で存在している。私たちの言語は、それらを表現するものとして用いられている。

にもかかわらず、あらゆる対象は「曰く言い難きもの」である。あらゆる対象そのものには、私たちは直接には到達できない。対象について語ろうとするとき、私たちは対象そのものではなく、その性質について言及せざるを得ない。しかし、その性質すら、観点や状況によって異なる現れ方をする。夢で見た少女についてすら、それがどのような性質をもっていたのか語り尽くすことは不可能だろう。

だとすれば、私たちは世界をそのまま語っているわけではない。にも関わらず、言語は確かに存在し、私たちは世界に言及している。では、なぜ、どのようにして、私たちは世界について語ることができるのだろうか。言い換えれば、私たちは普段、「なに」を語っているのだろうか。

「次元」の発見

それに対する私の回答は、「私たちは対象そのものではなく、対象が置かれる比較可能な系を語っている」…ということだ。

性質が対象にくっついたり離れたりする。あるいは、少なくとも私たちにはそのように見える。そのような変化のうちに、「時間」や「空間」といった存在形式のようなものが見出される。

時間や空間というものの特徴は「比較」が可能だということだ。つまり、「AはBより先である」とか「AはBを含む」といった同値関係や半順序関係が定義できるのだ。

つまり、私たちは対象を語ることはできない。だが、対象の形式を語ることによって間接的に対象を示すことができる。私は、このような比較可能な系のことを「次元」と呼ぶ。

次元はいくつあるのか

では、「次元」にはどのようなものがあるのだろうか?「大きさ」「地位」「美しさ」のように細分化するならいくらでも分けられるように見えるし、「同値関係や半順序関係をなすもの」のように定義すれば、すべてを一つの型に還元することもできるようにも見える。ここで重要なのは、どのような分類に意味があり、その分類から何が言えるのか、という点である。

私たちが本当に「次元」を語っているのなら、「質問」や「命令」のような言語機能や、文字・単語のような表現上の単位は別にしても、「次元」を詳細に分類することで、世界を記述するための一つの体系が得られるはずである。

グレアム・ハーマンの四方対象

さて、グレアム・ハーマンは、対象と性質を「感覚的/実在的」という区別のもとで捉え、感覚的対象・感覚的性質・実在的対象・実在的性質のあいだに、時間・空間・形相・本質という四つの張力 (tension / 緊張) があるとした。私はこの分析がかなり妥当なものだと感じており、本稿はこの理論を土台にしている。

ハーマンによれば、経験のうちで扱われるものが「感覚的対象」や「感覚的性質」である。一方で、対象や性質には、どのような経験や記述によっても完全には把握できない側面があり、それらは「実在的対象」や「実在的性質」と呼ぶ。この四項と四つの張力の対応は、次のように表される。

4つの張力

この図式にはいくつもの含意がある。

時間はもっぱら私たちの前に現れるもの、すなわち「現象」にかかるものだ。走ること、美しいこと、運動会…あらゆる「出来事」は時間の中にある。時間には、「AはBより先である」「AはBのあいだに含まれる」といった順序関係や包含関係があり、そのことが時間を比較可能な系にしている。

空間は、時間と違って「もの」を参照する。「〜の周りにある」だとか、「〜の中にある」だとか。例えば、「昨日、美術館で絵画を見た」というとき、美術館にあるのは「見る」という行為そのものではなく、「私」や「絵画」である。空間は、「部分的に含む」という関係によって成り立つ次元であり、その意味では「私の会社の中には法務部がある」のような言明も空間的な記述になる。

形相は、私たちの前に姿をもつ対象が、姿をもたない性質とくっつこうとする張力(緊張)である。例えば、「火が燃える」というとき、経験に現れているのは、あくまで時間とともに形を変える炎や音や光である。しかし、私たちはそこから「燃える」という抽象的な事態を見出す。形相の中に見出されるのは、行為や関係である。時間や空間と違い、形相は「もの」も「こと」も参照する。その中で見出される半順序関係は、行為や関係同士の連関であり、「〜で」「〜することによって」「〜として」などと表される関係だと考える。

本質とは、それが「なんであるか」という同一性である。例えば、あの女は俺の母親だ、と目の前の女性を指す時、見えている対象とは別に「俺の母親」という同一性を想定している。船の板が少しずつ交換されても同じ船と呼びうるように、同一性は時空間上の特定の「もの」や「こと」には還元されない。

同一性に見られる半順序関係は「植物も生物の一種である」というような種同士の包含関係である。ある対象を同じものとして扱えること、ある種を同じ種として扱えることによって、私たちは同じ対象について語り続けることができる。私たちの思考や言語は、このような本質同士の同値関係によって支えられているように見える。

これらの次元の間には、構造上の対応関係が見られる。例えば、時間には「点としての時間=出来事」と「線としての時間=状態」の二通りがある。点としての出来事は、状態のように他の時間を内部に含むことができない。同じように、本質には個体と種があり、個体は種のように他の個体を包含することができない。

次元の担い手

それぞれの次元には、それを「担う」ものがある。時間を担うのは出来事や状態であり、空間を担うのはものや場所であり、形相を担うのは行為や関係であり、本質を担うのは個体や種である。
次元内の同値関係や半順序関係は、これらの「担い手」同士の関係を表す。では、異なる次元の担い手同士には、どのような関係があるのだろうか。

Jaegwon Kimは『性質例化としての出来事』において、出来事を、実体 x が時間 t において性質 P を持つこととして定義し、[x, P, t] と形式化した。ここでいう性質 P は、本稿の枠組みでは、形相の担い手として扱うことができる。この考え方を採用するなら、出来事とは、行為や性質が時間上に例化されたものだと言える。

「行為や性質は時間上に例化される」と言えるなら、「種は空間上に例化される」とも言えそうである。眼の前にいる犬は、〈犬〉という種の同一性が、個体を通じて空間上に例化されたものだと考えられる。

また、空間の担い手である「もの」は、時間の担い手である「こと」に参与する。同じように、本質の担い手である「種・個体」は、形相の担い手である「行為・関係」に参与する…と言えそうだ。

この関係を図にすると以下のようになる。

担い手の関係

疑問詞としての次元

これらの四つの次元は、英語でいうところの疑問詞の役割を担っているとも言える。
時間が when 、空間が where、形相が how、本質は what。この対応は重要である。これらの疑問詞への回答として、世界の記述は成り立つからだ。表現とは、仮想的な質問に対する回答なのだ。

ただし、そう考えると、この四つの次元だけでは、私たちが普段表現していることを十分には扱えないことも分かる。例えば whetherhow much のような疑問詞は、これらのどれにもそのまま属さないように見える。

では、改めて、次元はいくつあるのだろうか。私たちはそれらの次元を紐解くことによって、世界を描くことができるのだろうか。

「指標」の発見

これら四つの次元を考えてみると、そこでの比較は、対象同士の関係として成り立っていることが分かる。「AはBより先である」「AはBの中にある」「AはBとして働く」「AはBの一種である」といった比較は、外部の尺度を必ずしも必要としない。

しかし、私たちが比較するときには、対象同士の関係だけでなく、共有可能な指標を用いることもある。例えば、数、単位、順位、ラベルのようなものによって、対象は外部の基準から比較される。

だとすれば、時間・空間・形相・本質の四つとは別に、「指標」として働く次元があると考えられる。私は、時間・空間・形相・本質の四つを「内在の次元」と呼び、指標として働く次元を「指標の次元」と呼ぶ。

では、指標の次元には何があるのだろうか。

数値化される次元

指標に用いられるものといえば、「数」である。脳科学者の Andreas Nieder は数の概念には

  1. 順序
  2. ラベル

という三つの意味があると主張した。「ラベル」は比較可能な指標とは呼べなさそうだから、基本的には量と順序である。つまるところ、私たちが「数値化」できるのは量と順序だ。これらからは確かに半順序関係を見出せる。
時間や空間といった内在の次元との違いは、量や順序には具体的な「値」があるように見える点にある。量は数だけでなく「単位」を参照するし、順序は数だけでなく「列」を参照する。次の表現から分かるように、量の表現と順序の表現はよく似ている。

  • 3個のケーキ
  • 3個目のケーキ 量の指定は〈数・単位・対象〉という三つ組で行われる。一方、順序の指定は〈数・列・要素〉という三つ組で行われると言えそうだ。

数値化されない次元

数値化が必要ない指標もある。「数」が必要なのは、合成や延長によって値の範囲が開かれ、その値を数によって指定する必要が生じるからだ。例えば、二つの量を足せば、更に大きな量になる。だから数が必要になる。

対して、数値化されない指標には「命題」と「集合」の二つがあると考える。これらは合成によって値が拡散しない。命題と集合は形式的にたいへん似ている。実際、それぞれ以下のように規定できる。

命題:世界を引数にとってその世界でその命題が成り立っているかYesかNoを返す関数
集合:個体を引数に取ってその個体がその集合に含まれているかYesかNoを返す関数

これら「指標の次元」は、二つの軸によって分類できそうだ。第一の軸は、合成によって新たな値が要求されるかどうかである。量や順序は、合成や延長によって指定すべき値が増えていくため、数値化される。これに対して、命題や集合は、どれほど複雑に合成されても、ある世界や個体に対しては Yes / No の形で扱える。したがって、量や順序のような数値を必要としない。
第二の軸は、対象を単独で評価し一つの値として表すか、複数の対象を関係づけて対象の配置や構成として表すかである。量や命題は、対象をまるごと一つの値として表す。順序や集合は、対象の位置や構成を表す。

単独の対象を評価する 複数の対象を関係づける
合成が新たな値を要求する 順序
合成が新たな値を要求しない 命題 集合

内在の次元と指標の次元を対応付けすると以下のようになる。

内在の次元 指標の次元 対応する張力
時間 順序 感覚的対象-感覚的性質
空間 集合 実在的対象-感覚的性質
形相 感覚的対象-実在的性質
本質 命題 実在的対象-実在的性質

この対応は、次のように説明できる。感覚的対象に紐づく指標は、反復や延長によって数値化される。実在的対象に紐づく指標は、直接には把握できず、有無として判定される。感覚的性質は配置や構成として分節され、実在的性質は対象全体にかかる一つの観点として現れる。

意味は形式より生まれる

次元には、それぞれ特有の現れ方がある。「〜より前」のように、ある時間から別の時間を示す形式もあれば、「3時間」「午後2時」のように、時間そのものを直接示す形式もある。ここでは後者を「発現」と呼ぶ。

私たちの言明の内容は、命題として扱える。本稿では命題は「同値関係」と「半順序関係」によって説明できると考える。すなわち、「これを買った人」と「眼の前の男」は同一であるとか、「走る」前に「水を飲んだ」とかそれぞれの次元の比較のネットワークこそが、私たちの「言明」になるのである。

言い換えれば、命題という次元の「発現」は向きのない二項関係と、向きのある二項関係の二種類によって記述できる。
では、他の次元の「発現」はどのように記述できるのだろうか。

例えば、「量」について考えると、量には二種類あることに気づく。つまり、「絶対的な量」を意味する線形量と、「相対的な量」を意味する「位置量」だ。

  • 経過時間 ↔ 時刻
  • 長さ ↔ 標高 これらの違いは、「0」が無を意味するか、基準点を意味するかにある。「0時間」という線形量は文字通り無を意味するが、「0時」という位置量は無を意味せず、単なる基準時刻を意味する。したがって、線形量は〈数・単位〉で定義できるが、位置量は〈数・単位・基準点〉を必要とする。

集合にも「外延集合」と「内包集合」という二種類の定義がある。順序にも、既存の列から n 番目の要素を抽出する方法と、要素を並べて列そのものを作る方法があると言えそうだ。

こうしてみると、それぞれの次元の「発現」方法はその形式から異なることが分かる。発現以外の演算(例えば、和 + であるとか選言 であるとか)にはある程度の近似性がありつつも、それぞれの次元であり方が異なるように見える。次元ごとにはそれぞれ特有の性質があるのだ。

項数 向き 引数の型
同値関係 2(以上) なし xx
半順序関係 2 あり xx
内包集合 1 あり x
外延集合 0以上 なし x...
要素配列 0以上 あり (x...n)
要素抽出 2 あり n...x
位置量 3 あり nxx
線形量 2 あり nx

xは任意の次元。nは数。

新たな言語パラダイムに向けて

さて、私は、この「八つの次元」を、世界を構成する根本構造として捉えられるものだと考えている。それぞれの次元の構造や、次元同士の関係を詳らかにすることで、世界を記述するための基盤を見出せるだろう。もちろん、言語には、生理的・社会的な要請によって生まれた「道具」としての側面がある。そのため、言語設計には、発話の目的や運用上の機能も要る。それでも、この八つの次元は言語を設計するための骨格にはなりうるだろう。

私たちの「言語創作」は、もっぱら模倣に依るものだった。「あの要素はあの言語から」と欲しいものを選んで取ってくる、いわばビュッフェ形式の創作である。だが、本来、世界を表現したいのなら、世界そのものの構造を参照すればよい。名詞とか動詞とかといった既存のパラダイムに則る必要はないのだ。

この論考が、新たな言語創作に向けた小さな手がかりになることを願っている。

以上。

人気順のコメント(1)

たたむ
 
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セレソ・アルバザット

とても面白い考え方だと思います。参考になりました。関係ないですが、サムネのエア本さん……笑