この記事を読んでいるみんなは、夏休みをどう過ごしているだろうか。社会の家畜の方々は、まだ夏休みが遠いというか来ないかもしれない。
私は、とても困っている。
今、Discordのサーバーの中で、共同で作っている言語がある。名前はクィルヴァース語(orキルヴァース語)だ。かっこいい。
その言語の紹介に際して、良い書き出しが生まれたところで急ブレーキがかかっている。何をどこまでまとめるべきか、とても悩んでいるのだ。
私は言語学に関して明るくないどころか、足元を照らすのにも苦労する暗闇の中にいる。
そんな私が言語について考えたり、議論に参加するのは、実に時間の浪費であると、一般人は考えることだろう。言語を説明するには言語学に詳しい彼ら・彼女らが主導していくやり方が適切だからだ。餅は餅屋に突かせたほうが美味しいのは、当然のことである。
私は、どうにかその人々を、驕りまくった社会のバカ共だと侮辱したい。
今日は、叩かれるのを覚悟で、ここに思ったことを書かせていただきたい。
言語化
僕は、新しい言葉を作るのが好きだ。言葉を司るのが得意だと、個人的に自負している。グラフィックデザインを学んでいる中で、言語化は欠かせないものであり、社会においては、それを求められ続けているからだ。
読書感想文、朗読、記述問題、卒業作文、数学の証明問題、プレゼンの原稿、履歴書、自己分析……。ぱっと思いつくだけでも、僕が出会ってきた社会の中で、言語化を求められるシーンは、義務教育とも密接にくっついていることが伺える。
僕は、そのいずれかができない人を鼻で笑いながら、ただ自慢の「借り物の知識」を用いて教えるのだった。
そう、僕も社会のアホ共と変わらないのだ。たまたま上手かった言語化で天下を取ったつもりの人だったのだ。
先ほどの強烈な侮辱は、「賢い私」がただ「社会」を嘲笑するだけでなく、言ってしまえば、過去の自分に対する自戒でもあるのだ。
創作に大事なのは言語だけではない
それを踏まえて僕たちが考えるべきなのは、言語そのものだけでなく、言語を取り囲む世界から「見つめること」なのかもしれない。
その世界が文字ではなく絵を必要としていたら、ノートではなくスケッチブックを使って言語を書くかもしれない。あるいは、身振り手振りのボディーランゲージが必要とされる世界もあるかもしれない。あるいは、もっと最小限に、アイコンタクトだけで話す言語も生まれるかも…
僕の頭の中にあるスクリーンには、白いテーブルクロスと色とりどりの料理を囲んで、複数の人々が肩を寄せ合いながら笑っている姿が映し出されている。
彼らの皿に乗っているのは出来立ての餅だろうか。私が食べたことのない七面鳥の丸焼きだろうか。彼女らが話している、書いている、図示している、鑑賞している言語は、まだ分からない。
でも、なんか、楽しそう。
自分たちの目で、社会を、新しい言語を見つめていく。共同で作る言語は、本来、それだけカオスなことができるのだ。
記事を書くのに4分の1日余りをかけてしまったが、その分私は僕を、そして他者を見つめ直せた。
さて、僕はかなり過激な足跡を残して、夏休みを謳歌していく。
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この記事には「僕」と「私」という2人の自分が出てきているため、初めて読むと少しこんがらがります。
ご了承ください。