フランスの哲学者ジャック・デリダの著書に「有限責任会社」という本がある。
この本は、ジョン・サールとの間で交わされた「サール=デリダ論争」に関わるテクストが収録されており、デリダのサールへの反論となる「有限責任会社abc...」などが収録されている。大陸と英米の哲学的交流(というか、ポモvs分析の殴り合い)としてはよく知られたものだが、今回はその内容には入っていかない。
問題なのは、その題名である。何故、デリダはサールへの反論にこんな意味不明な題名を付けたのだろうか?
フランス語版よりも先に出た英語版題名をあたってみると "Limited inc." となっている。「有限責任会社」が議論で何かを形容しているのか?
もっと簡単な答えがある。フランス語で「有限責任会社」は "Société à responsabilité limitée" である。これの一般的な省略は S.A.R.L. つまり、「サール」なのである。デリダは、サールらを悪ふざけのように題名で揶揄したのである。こういうところや彼自身の哲学に無邪気さというか、少年っぽさを感じる。
こういう言葉遊びはやはり翻訳不可能性だと思う。だからこそ、英語版も日本語版も直訳することしか出来なかった。こういう言葉遊びに直面した翻訳者がしばらくぽかんとしている様子が頭に浮かぶのが訳書の醍醐味である。
私は翻訳不可能性は「自己やその他の全体性に交換不可能であるために他者的である言語」を保証するために重要なものだと考えている。私がここ数年間悩んできた問題として、人工言語の自己同一性(ある人工言語が本当に『ある人工言語自身』であるためには何が必要なのか?)というものがある。つまり、「リパライン語が『リパライン語』であるためには何が必要なのか?」である。
こういった私の興味はやはり「アプリオリ言語」を志向するところから出てきているのだと思う。
翻訳不可能性を元にした自己同一性は、何者であるかを他者に決めてもらうようなものである。先の言葉遊びがフランス語の自己同一性を保証するのは、その表現自体ではなくてその表現が他の言語で完全に翻訳しきれないことにある。こう考えると、ある言語とは「そういった翻訳不可能性のとある集積を中心として志向したコミュニケーションのコード」ということが出来る。
では、記号的にSarlのような翻訳不可能性のカテゴリを適用すれば自己同一性をもった言語を作れるのか?
より具体的に言えば、例えばリパライン語である単語になるような略語を作れば、それは中心になるのだろうか?
しかし、これには違和感がある。
似たような翻訳不可能性の類型を適用することは翻訳不可能性が自己同一性を保証する段階より、高次に抽象的な段階の自己同一性を失わせているのではないかということである。類型化した翻訳不可能性は、その段階で全体性となってしまう。私としては、できる限り類型化されないような翻訳不可能性を志向すべきではないかというところを思ったりする。どのようにして類型化されないようなところを目指すのかというのはまた別の記事で考えてみたい。
人気順のコメント(1)
あらゆる言語は語彙どうしの固有の(偶然の?)ネットワーク(の仕方)があり、それがその言語を弁別する特徴量である、というふうに読みました。合っているかわかりませんが、とても面白い視点だと感じました。
詩や文芸といったものは、その部分を突き詰めることで成り立っているのかもしれません。そう考えると翻訳という営みに示唆するところがありそうです。