Inspired by The reality is sprouting of stringy bok choy.
この文章はフィクションです。
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多くの人間は実学といううつつを踊っているため、書店にある語学書にありついたとしても、買って書棚の肥やしとなるのがいいところである。使いもしない単語帳や辞書を買った瞬間に我々は頭が良くなったような気がするが、単に手元で調べられる単語の数が増えたのであり、当人のバカさ加減という意味合いでは何も変わっていないのに、満足気になっているのは神経薬理学的なシナプスの習熟曲線が資本主義によって教育されている(SMプレイのように)と同様で、まさに義務教育のようなフーコー的ディシプリンが頭髪から特殊出生率を記すインクのシミまで「バビロン」によって手懐けられているにすぎない(一部を除いて封建社会を肯定するものだ)。
そのようなディシプリンから逸れた光(イデア)を直接見るためには、縛り付けられた手足を解放し、自分たちの後ろで人形劇をやっている(まさに資本主義という意味で)意味不明なギリシャ人を諸手で殴り倒す必要があるが、我々は一般的にソクラテスのような「少し様子がおかしいが何の悪さもしていない老人」を論激して、毒人参を飲ませて殺すなどという残酷なことはしないのである。
というわけで、「中庸」という言葉が結局のところ「行き当たりばったり八方美人」という性格の悪い奴に限って使う便利disワードでない限り、言葉を巡る楽しみはパーシャルアゴニスト的に受容されるのだ。
この連載はリパライン語に関する諸相を十年越しに見る望遠鏡的企画であり、過去に戻ったり、未来に行ったりする不定期の連載である。入門者にはとことん読みづらく、下手な文章が山積され、経験者も読んでいて膵臓のランゲルハンス島のあたりに違和感を感じるようなものを目指してる。
そのため、Fafs F. Sashimiのフーコー的「病」のような文章が掲載される場合があるが、心配は無用である。そもそも、「病」に与えたその定義は前提ではなく、関係であるから、読者はその点に注意するといい。
というわけで、自由なリパライン語の世界へと迷い込んでみることにしよう……
この文章があなたの役に立つか立たないかは、不明である。
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