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Fafs F. Sashimi
Fafs F. Sashimi

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#05 (反)革命を脱構築する

Inspired by The reality is sprouting of stringy bok choy.
この文章はフィクションです。
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……
………
善良なフェンテショレーは、死んだフェンテショレーだけである

――というのは、ユエスレオネ革命の只中に居たユエスレオネ人民解放戦線の一般的な構成員の考えだったのかもしれない。
革命に関しては「fentexol」とは何者か? ~ニスタショルとユエスレオネ国家~という題材で、第3回架空国家学会において詳しく考察を行った。

この発表において描き出されたのは、「革命」と「反革命」の内容が逆転しているということであった。
「リパライン語の "xel, xol, xal" は同根である」という言語学者ターフ・ナモヴァフの主張を元にして、哲学者ラブレイ=デシ・ヘルツァーヴィヤは「見に行くこと」(xel)は「革命」(xol)であるという格律を打ち立てた。

この格律に基づくなら、「反革命」は「見に行かない」、「見られる」、「見える」ことなのである。こうして、伝統的なリパラオネ民族における「革命・反革命」の内実は能動性と回避性ということになったのである。

しかしながら、思想家ターフ・ヴィール・イェスカによる著書「教法学的社会主義とその理論」は、“革命は自然である”と主張している。
自然である革命に反抗する能動性こそが「反革命」であると主張したのがイェスカの理論であった。
このような能動性と回避性の逆転と重ね合わせはイェスカ自身が主張した主体的統一の理念にほかならない。

具体的再整理と新イェスカ主義

リパラオネ文化の伝統的・古典的な考え方においては、革命は能動性であり、反革命は回避性である。それに対して、イェスカ主義のような近代的立場においては、革命は回避性であり、反革命が能動性とされた。

古典文化を表すスキュリオーティエ叙事詩においては、英雄ユフィアの戦いへの回避性が反革命と捉えられ、逆に五副将を揃えて敵であるサフィア討伐へと立ち上がる姿は能動性として革命に捉えられた。

イェスカ主義の議論はこれを逆転させるものであり、自然の革命的運動は疎外円環を破壊する回避性であり、反革命とはそれに抗する能動性であるとされたのだ。

しかし、ピリフィアー暦2010年代から興隆した新イェスカ主義は、ユエスレオネ革命を自然の革命ではないと捉えるところから、それまで考えられていたアレス・デュイネル・エレンによる武力革命論に代表されるような革命的運動の積極性を否定し、その回避性を重要視した。そのうえで、反革命の能動性に再び光を照らすという再照射の流れを生み出したのだった。

リパラオネ的(反)革命を脱構築する

古典から近代、現代のテクストを通して、複数のディスクールが生み出すのは、常に固定不可能な「革命」の存在であった。

  1. 古典的リパラオネ文化
     革命=能動性

  2. イェスカ主義
     革命=回避性(自然)

  3. 新イェスカ主義
     革命=自然ですらないかもしれない何か

これによって、「革命」は常に意味の差異と延長を繰り返す存在として、たゆたっているのである。革命は今ここに存在せず、常に別の説明・別の理論へと先送りされているのだ。

「反革命」もまた「革命」に対立する概念として提示されるが、その実状は「革命」がなんであるかを語るために要求されているものなのである。これはつまり、革命の外部に「反革命」が存在して対立しているのではなく、その中に入り込んでいるということであり、二項対立を根本から否定するものである。

また、能動性と回避性という二項対立もまた、回避性という行為が既に能動的なものであるということから、区別そのものの意味を失っているとも言えよう。

意味のゆらぎを文化として引き受けるリパライン語

ここまでの議論で分かったことは、革命を語ろうとすると反革命が呼び出され、反革命を語ろうとすると更に革命が書き換えられるという円環的相克がリパライン語に存在するということになっている。

即ち、リパライン語は革命を語るたびに新たなものとして革命を定義しているのだ。
リパライン語は革命を命名するための言葉ではなく、革命という語が不死鳥のように一生を終えたその灰の中から再び再生するように、意味の崩壊と再現前化=表象(representation)を行うような言語であるということができるのである。

まとめ

"xel"と"xol"の言葉の繋がりから、リパライン語全体の話へと視点を引き上げていこう。
我々は「革命」と「反革命」の対立から、それらが二項対立の中から本来優位であるはずの「革命」の意味を揺らがせているていることをこれまでの議論で明らかにした。「見に行く」としている他動詞のxelの行為は揺らいでおり、これは行為とも非行為とも取れるのが本質的なことなのである。
リパライン語の他動詞としての行為のゆらぎは、主体が対象に対して何かを行うというこれまでの前提をここまでの議論によって覆してしまう。これは主体が何かをするのではなく、出来事が主体を通過する形で事態が進行している様子が表されているということに脱構築することができるのである。

脱構築の先において言えることは、リパライン語が意味を安定しないことを文化として引き受けた言語であるということである。
それは、むしろ意味のゆらぎとして存在することによって、常に生きた言語としての意味を生成し続ける存在であるということなのである。

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