※ 最近考えていたことの個人的な書き残しです。多分、読んでも意味不明です。
一枚目(奥の紙)
... lovik nestil io mi nun niv mels ny la lex.
zu, "harmie es lineparine?" harmie mi nun niv?
la lexe'd laul es nixerl. mi senost eter fal no.
stedelo eter es nefcenergust.……最近、あることを問わなくなった。
何かというと、「リパライン語は何なのか」ということ。何故、私は問わなくなったのか?
その理由は誤りだ(からだ)。私は今、他者を聞いている。
他者を掴むことは出来ないことだ。
二枚目(手前の切れ端)
mi lirf niv xorlnem lyjot.
lartastan krante n(i)v la lex.
nefxorlnem lyjot lap krantet mi.
mi'd la edioll josnyn fai xetten chaistan lap.
kranteerl vel es larfi mal la lex
letix untirke'd liestu.
sliejestan leus veleserl uluvo
kantet panqa'd lartastan.
mag, mi krante nefakrantisyken
lyjot xorlnemj nyj.私は美しい文字が好きではない。
その人(=私)はそれを書かない。
美しくない文字のみが私を意味する。
私の過去は、クソッタレの線のみによって現れる。
書かれたもの(=文字)は身体であり、それは
自己の時間を持っている。
その複数の層によって刻まれたもの(=文字)は一つの人間を意味する。
だから、私は読みづらい
醜い文字を書く。
結果
この文字は文字自身を回帰して認める。だから、一人の人間を旅立って他者となった。
自己だと思っていたものは、いずれ他者になっていく。だからこそ、「リパライン語とは何か?」を問うことは空虚なのだ。
この二枚の紙と文字によってのみ成るゲシュタルトによって、これらの表現が完了した。
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