ヌテラ教は本来、民族の伝統的な信仰の再解釈、あるいは賑やかしであった。それが今では、他の神は隅に追いやられて、ヌテラという悪神を救世主かのように崇め奉るようになってしまった。バター人になじみのある神や、そうでない全くの創作神までもが、みんな仲良くヌテラの下におさまっている。このよこしまな新興宗教について、思うことを述べてみたい。
ヌテラは我々にとっても創造神であるが、本来ヌテラとともに存在していたのが、生成神のヌルプリと、破壊神のセイチョーである。
創造と生成の違いは何か。我々の解釈するところによれば、創造とはわれわれ人類に利する人工物をつくりだすことであり、生成とは自然のものをつくりだすことである。
創造が人類の手によってなされるのに、なぜ創造神がいるのかといえば、何かを創造しようという考えをおこすのに神の力が必要だからである。
人類が生まれる前には、生成と破壊のみが存在し、世界はきわめて安定的に運行されていた。自然の摂理にのっとって、牛や鳥といった動物たち、草木やキノコといった植物たちが、のびのびとうたい暮らしていた。
ところが人類が生まれてから、人類は自然を加工し、みずからの役に立つものを創造するようになった。自然の加工は、世界に資する破壊ではなく、悪化である。
それなのにヌテラ教の信者たちは、創造こそが敬意を払うべき営みだと言い張る。創造なくして人類は生きられず、夢の世界でも創造が人類の生きる原動力であると言い張る。建物、衣服、機械、子どもを創造することが、なににも勝る喜びだと言い張る。
そもそも創造とは狂気であり、生成とは安寧であり、破壊とは正気である。彼らはそのことを忘れている。
人類は生まれてから、世界の体力を損なうことしかしてこなかった。人類は世界を壊すことを生きがいとしてきた。いま、人類によって世界は消滅の危機に瀕している。
世界の食べ放題のモチベーションとなっているものは、すなわち創造である。森を切りひらいて都市をつくることが、なぜセイチョーにとって喜ばしい行いであろうか。
いま、この国ではヌテラ教の害毒が染みわたり、国王でさえヌテラを拝むようになった。創造が美化されることにより、我々の国は崩壊因子のスポンサーとしてその名をとどろかせている。
人類とは世界の癌である。彼らはそのことを忘れている。
創造のどこに安寧があろうか。破壊のどこに狂気があろうか。人類はいまいちどそれを考えるべきだというのが、我々の大義であるが、それを受け入れられる脳が彼らにはもう残っていないのではないか。
創造の神格化により、われわれは名前さえ変えさせられることになった。民族の伝統的なセイチョー信仰の継承者として、生成と破壊の原理を伝え、人類を正しい破滅へ導くという使命を胸に、よこしまな新興宗教の軍勢に抗う意志をいまいちど確立しなおすべきである。
(めざめのひかり教団 Gnika Gambavme)
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