うちの創作世界の言語のひとつである卬瓣語(ぎょうべんご,英: Coerran1 language )は,否定無標の言語です。この記事では,卬瓣語がいかにして否定無標の言語になったのか,その歴史(制作史ではなく架空の語史のほう)を整理してみます。
卬瓣語では,極性(いわゆる肯定否定)が TAM 範疇(時制・相・法/法性)の変遷に巻き込まれ,全体として複雑な変化を辿りました。
変遷
時代設定とかはできていないので,変化が起こった流れ(順序)のみ説明します。
また,以下では各変化を順序立てて説明していますが,続けざまに起こったというよりは,時期は被っているとイメージしています。
変遷前:否定有標の時代
もともとは,次のように膠着するシステムでした。有界と過去の (ɔ) は直前が子音の場合に現れます。
極性 | 動詞語幹 | 相 | 時制 |
---|---|---|---|
肯定:
∅-
否定: a- |
(語幹) | 無界:
-∅
有界: -(ɔ)p |
非過去:
-∅
過去: -(ɔ)l |
なお有界相 -(ɔ)p は,動詞を,名詞でいうところの "可算名詞" のようにします。例えば,日本語の "普通の"「走(ってい)る」が単に状態を表すとすれば,「一本走ってくる」というときの「走る」のようなものがここでいう有界相です。ただし過去時制においては,有界相はいわゆる完了「すでに~した」と同じような使われ方をする場合が多いです。
以下のような具合になります。
- kagipɔl
- kagi-p-ɔl
- 織る-有界-過
- 織りきった
- apidɔl
- a-pid-ɔl
- 否-眠る-過
- 眠っていなかった
変遷の引き金:音韻変化と副詞の義務化
卬瓣語では唇音退化が起こり,語中語末で /p/ の音が弱化,消失しました(p > β > ∅)。日本語でいうハ行転呼ですね。なお,日本語と同じく,原則 a の直前だけは wa (β̞a) に留まります。
この変化を受けると,先ほどのシステムは(途中経過として)次のようになります:
極性 | 動詞語幹 | 相 | 時制 |
---|---|---|---|
肯定:
∅-
否定: a- |
(語幹) | 無界:
-∅
有界: -(ɔ)β |
非過去:
-∅
過去: -(ɔ)l |
これは過去無界が -(ɔ)l に,過去有界が -(ɔ)βɔl になることを意味し,徐々に β が薄れて聞き分けづらく,また話者(ここではその言語の使い手を指す(聞き手も含む)。以下同じ)の意識のなかでも区別があいまいになっていきました。
その区別を取って代わったのが,副詞要素である sa 「まさに 今/そのとき」と nuβa (< nupa) 「すでに」です。過去時制においてはそれぞれ動詞の前に義務的につけられるようになり, sa が無界の意味を, nuβa が有界の意味を担うようになりました。ただし,過去時制の有界はほぼ完了的な意味で用いられるので,これらの区別は非完了・完了と呼んでおくことにします。
…というのは肯定のときの話で,否定の場合は sa や nuβa とはあまり相性がよくありませんでした。(日本語でも「?すでにしていない」は違和感ありますよね。)そこで, tura 「~していく」の出番です。
もともと否定過去有界は「まだやりきっていなかった」と「まだ着手していなかった」の両方を表わせました2。このうち前者は「やっている途中だった」,後者は「やりつつある状態だった」と意味が被ります。いずれの意味においても,否定過去有界は tura +肯定過去有界(原義:「~していくところだった」)によって置き換えられていき, tura が義務化しました。なお,同じ否定過去でも無界についてはそのまま残りました。
以上をまとめると,次の状態になります。過去時制のみで変化したため,非過去と過去で分けて表示しています:
非過去(さっきと同じ)
極性 | 動詞語幹 | 相と時制 |
---|---|---|
肯定:
∅-
否定: a- |
(語幹) | 無界:
-∅
有界: -(ɔ)β |
過去
極性と相 | 動詞語幹 | (相と)時制 |
---|---|---|
肯定非完了:
sa-
肯定完了: nuβa- 否定無界: a- 否定有界: tura- |
(語幹) | -(ɔ)l ~ -(ɔ)βɔl |
非過去への波及と,将然・進行の分裂
ここまでで,過去時制においてのみ,有界・無界の対立が接尾要素ではなく副詞の義務化による接頭要素に移ったと説明しました。しかし実際には,過去時制から少し遅れて,非過去時制へとこの変化は波及していました。つまり,非過去時制でも例の接頭要素が義務化していったわけですね。なお非過去と過去の区別は接尾要素のほうに残っています。
極性と相 | 動詞語幹 | 相と時制 |
---|---|---|
肯定非完了:
sa-
肯定完了: nuβa- 否定無界: a- 否定有界: tura- |
(語幹) | 非過去無界:
-∅
非過去有界: -(ɔ)β 過去: -(ɔ)l ~ -(ɔ)βɔl |
…かなり否定無標が見えてきましたね。
さて,過去時制での tura- は「やっている途中だった」(進行),「やりつつある状態だった」(将然)の両方の意味を表していました。が,これを非過去時制(現在などを表す)でやろうとすると,「やっている途中だ(始めてはいる)」と「やりつつある状態だ(始めてない)」が同じになってしまいます。過去について話すときに比べて,現在について話すときにこの区別がしづらいのは話者の認識上困ります(というか,区別した認識をしやすい)。これに伴い tura- は,将然を表す ra- と進行を表す taa- に分裂していきました3。
すなわち,次のようになります。
極性と相 | 動詞語幹 | 相と時制 |
---|---|---|
肯定非完了:
sa-
肯定完了: nuβa- 否定(無界): a- 将然: ra- 進行: taa- |
(語幹) | 非過去無界:
-∅
非過去有界: -(ɔ)β 過去: -(ɔ)l ~ -(ɔ)βɔl |
/β/ の消失
ここまで /β/ を /β/ のまま放ったらかして書いてきましたが,実際にはこれは絶賛弱化中の音です。
弱化が終わりに近づいていくと,非過去有界の -(ɔ)β と過去の -(ɔ)l ~ -(ɔ)βɔl が融合しはじめます。 -(ɔ)β は開音節語幹の動詞ではただの -β ですから,このままでは消えてしまうところでしたが, -(ɔ)l と合流したことで何とか保ったわけですね。最終的には合流後の接辞の形は,閉音節の後で -ɔ ,開音節の後で -l に落ち着きました。そしてこれは,有界の意味と過去の意味をミックスさせ,いわば〈その時点の取り立て〉〈(現在との)対比〉ともいうべき意味を担うようになりました(以下,「取り立て」)。
それから /β/ の弱化に伴い nuβa- も約まって na- に落ち着きました。
極性と相 | 動詞語幹 | 相と時制 |
---|---|---|
肯定非完了:
sa-
肯定完了: na- 否定(無界): a- 将然: ra- 進行: taa- |
(語幹) |
非取り立て:
-∅
取り立て: -ɔ/-l |
そして,卬瓣語を否定無標たらしめた決定的な変化が次のものです。
この記事の最初に「眠っていなかった」で例文を出しましたが,いまの時点で次のような形になっています:
- aβidɔ
- a-βid-ɔ
- 否-眠る-過
- 眠っていなかった
ここで気づかれるのは,元々 /p/ で始まっていた動詞にも唇音退化の影響が及んでいる( pid > βid )ことです。ここまでの変化で動詞は必ず接頭要素を伴うようになっているため,動詞語頭だった /p/ は必ず語中に存在するようになっており,この音はやがて消滅します。すなわち今の βid 「眠る」は id になります。接頭要素について全部出すとこうです:
接頭要素 | +眠る |
---|---|
肯定非完了 | sa-βid > sa-id |
肯定完了 | na-βid > na-id |
否定(無界) | a-βid > a-id |
将然 | ra-βid > ra-id |
進行 | taa-βid > taa-id |
ここで,異なる母音の連続を嫌って,a-i の部分から a が脱落しました。そもそも接頭要素は全て a で終わっていたので,この位置の a はほとんど弁別機能を担っていなかったわけですね。
接頭要素 | +眠る |
---|---|
肯定非完了 | sa-βid > sa-id > s-id |
肯定完了 | na-βid > na-id > n-id |
否定(無界) | a-βid > a-id > ∅-id |
将然 | ra-βid > ra-id > r-id |
進行 | taa-βid > taa-id > ti-id |
ただし, taa-id については,長音であるという素性を残すかたちで ti-id になっています。
なお,動詞側の母音が a だった場合はどうなったでしょうか。
そもそも /β/ の弱化において,原則として /a/ の直前だけは完全に消失しきらず,wa (β̞a) に留まるのでした。しかし,/a/ に挟まれるという環境下だと,脱落することがあります(日本語でも「ひまわり」と言うときよく [ひまーり] になりますよね)。卬瓣語の接頭要素直後が /βa/ である場合,必ず /a/ に挟まれた環境下になる(接頭要素の末尾が必ず /a/ であるため)ので,/β/ がよく脱落しました。そして文法要素絡みという特殊な環境のせいで,脱落した形がそのまま定着しました。
βasi (< pasi) 「置く」で例示すると次のようになります:
接頭要素 | +置く |
---|---|
肯定非完了 | sa-βasi > sa-asi |
肯定完了 | na-βasi > na-asi |
否定(無界) | a-βasi > a-asi |
将然 | ra-βasi > ra-asi |
進行 | taa-βasi > taa-asi |
ここで,先ほど a-i の母音連続の場合は「異なる母音の連続を嫌って」a が脱落したと書きましたが,今回の a-a の場合は,前半の a が脱落したというよりは,二つの a が一つにまとまるといった具合で a が一つになりました:
接頭要素 | +置く |
---|---|
肯定非完了 | sa-βasi > sa-asi > s-asi |
肯定完了 | na-βasi > na-asi > n-asi |
否定(無界) | a-βasi > a-asi > ∅-asi |
将然 | ra-βasi > ra-asi > r-asi |
進行 | taa-βasi > taa-asi > ta-asi |
ここで,「s-asi, ∅-asi のように分析せずに sa-si, a-si と分析してもよいじゃないか」と思われるかもしれませんが,これは先ほどの βid 「眠る」の場合とパラレルにするためです。
同じ理由で, kagi 「織る」についても再分析しておきましょう(これは語形が変化したのではなく,今の βid や βasi の変化に合わせて接頭要素の範囲を再解釈したということです):
接頭要素 | +織る |
---|---|
肯定非完了 | sa-kagi > s-akagi |
肯定完了 | na-kagi > n-akagi |
否定(無界) | a-kagi > ∅-akagi |
将然 | ra-kagi > r-akagi |
進行 | taa-kagi > ta-akagi |
つまり,接頭要素の解釈を揃えた(動詞は必ず母音で始まると解釈する)わけですね。
変化完了後の体系
最終的には(幵代卬瓣語では)次のような体系になりました。ただし,「肯定非完了」は「状態」に,「肯定完了」は「完了」に名を改めておきます。順番もさっきまでと変わっていることに注意してください:
接頭要素 | 動詞語幹 | 接尾要素 |
---|---|---|
状態:
s-
完了: n- 将然: r- 進行: tV- (V は動詞語幹頭の母音と一致) 否定: ∅- |
(語幹) | 非取り立て:
-∅
取り立て: -ɔ/-l |
こんぐらっちゅれーしょんず。否定無標です!!
なお,それぞれの接頭要素・接尾要素は次のような TAM 範疇(&極性)を担います:
名称 | 形態素 | 意味 |
---|---|---|
状態 | s- | 習慣や状態を表す(もとの無界の意味を引き継いでいる)。 |
完了 | n- | 動作が完了していることを表す。 |
将然 | r- | これから開始すること,ないしその意志を表す。 |
進行 | tV- | 動作が進行中であることを表す。 |
否定 | ∅- | その動作をしないことを表す。なお,例えば「まだやっていない」(動作が起こることは想定されている)と言うときは代わりに将然(「やるのはこれからだ」)を用いることになる。 |
非取り立て | -∅ | ↓の「取り立て」ではないものにあたる。 |
取り立て | -ɔ/-l | 言及対象の時点以外の時点との対比を想定してその動作を述べる。語源上の理由により意味は過去寄り。 |
組み合わせるとそれぞれ次のような意味になります:
非取り立て -∅ |
取り立て -ɔ/-l |
|
---|---|---|
状態: s- | 焦点時の状態(無界)。また,現在の,または焦点時と現在に及ぶ 習慣。 | 過去の習慣(現在はそうでないことを含意)。 |
完了: n- | 非過去の完了。 | 過去の完了。 |
将然: r- | 起動。また,起動するだろうという推量。 | 過去の未然(その後起動したことを含意)。また,起動しようという意志。 |
進行: tV- | 有界な動作の進行。 | 過去の有界な動作の進行(現在は終えている/やめていることを含意)。また,未然ではなく既に始めているということ,あるいは,完了ではなくまだ終わっていないということ。 |
否定: ∅- | その動作を全く想定しないということ。 | 焦点時の否定(他の時点での肯定を含意)。 |
なんというか,否定がデフォルトで,「どんなふうにその動作が起こるか」というのを標識していく感じですね。
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