ユエスレオネ革命が起こった後にイェスカ主義勢力によって成立したユエスレオネ連邦は、当初国民に「正しい」革命に関わる考え方を伝えたり、イェスカ主義を陶冶することが急務となっていた。
なぜかというと、革命にはイェスカ主義者のみではなく、民族自決のためのリパラオネ民族戦士の堅陣(PLELC)やラネーメ民族党、その他少数民族保守勢力などの保守主義勢力やXelkenなどが革命に関わっていたうえに、イェスカ主義を支持すると自称するような街1であっても「フェンテショレーだから処刑する」などと間違ったイェスカ主義の考え方を持つ市民が多かったからである。このような現実に対し、イェスカ主義者たちが組んだユエスレオネ人民解放戦線(MLAY)が革命の趨勢を握り、新国家の建設の中心となってからは彼らに正しいイェスカ主義教育を与える必要があると考えたのであった。
そんな時代――「第一次社会主義ユエスレオネ」と呼ばれる時代を生きてきた空生まれ世代と呼ばれるユエスレオネ人たちは、そういった新しい教育の風によって作られた様々な書物や雑誌に触れてきた。伝統的なものと一線を画すような文書は後世に残るようなよく知られた文を生み出した。
今回は、そんな「古き良き時代」に発表・出版された本と、その有名な一文を巡っていこう。
フェンテショレーと戦うイェスカ主義市民のためのリパライン語
フェンテショレーと戦うイェスカ主義市民のためのリパライン語(
lineparine'd lerssi'aosti fua jeskaveranasch iccoer zu elm fentexoler'c
)とは、革命出版によって出版された現代標準リパライン語教育用冊子である。著者はターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユであり、内容はターフ・ヴィール・タリェナフが監修している。
やはり、時代の影響なのか「イェスカ主義」を強調しており、その片鱗は最初の章である音韻解説から現れている。
a
この母音は大きく口をあけ「ア」と発音せよ。それで通じる
使用例
ja:「了解」。上官からの指示にはこのように返事せよ。
anka:「強靭」。人民解放戦線は強靭なる組織である。
asca:「豊かな」。旧政府の肥えたフェンテショレーは革命によって打倒される。
carxa:「姉」。革命の姉といえば我らが最高の同志イェスカのことである。
こんな調子が最後まで続く。第三政変以降のユエスレオネ人が見れば、あまりにも思想感丸出しで頭が痛くなってくることだろう。レトロ感として彼らが楽しめない理由は、割と内容が実用的だからだ。ファイクレオネの様々な言語の話す者に教授するための配慮は凄まじく、ラネーメ言語学への造詣やヴェフィス語話者への助言などきちんとリパライン語を教えようとしているところがネタにしきれない感を醸し出している。
こんな冊子でも、後世に残した文がある。それがこれだ。
vefise ad et io p'itepeveal niv xerfinisnen nistalolerrgo, lineparine io flivi'a furnkie kante fai la lex. panqa'd klirma io icco'd malcajt ad xola'd carxa l'es jeska irfelj fastaj nix fenterxoler fentexoler'c deliu niv.
ヴェフィス語などの言語では母音の長短を区別しないが、リパライン語では母音の長短で大きく意味が変わってしまうことがある。例えば、偉大なる国母であり革命の姉である同志イェスカの前で「九大革命家」と「反革命者」を間違えることがあってはならない。
訳を読んでもこの文の何が評価されてきたのかは分からない。しかし、リパライン語の原文では、「九大革命家」(
fenterxoler
、フェンテーショレー)と「反革命者」(
fentexoler
、フェンテショレー)という長短のみで弁別される(政治的に)紛らわしい単語2を取り上げて、面白おかしくリパライン語の音韻を説明している。
しかも、重要なのは、これが人民解放戦線の幹部であるウォルツァスカイユ、タリェナフによって書かれた事実である。
当時のユエスレオネでは、「フェンテショレー」という語は大いに誤解されていた。その極地はレシル家事件として、後世の国民にはよく知られている。シャリヤやエレーナの両親が革命派であると旧政府軍に誤認され、連行されて拷問死したように、立場が逆転すれば同じようなことは革命都市でも起きていたのだった。
しかし、イェスカ哲学の論理においては、フェンテショレーとは「旧政府派の敵」を指すわけではない。イェスカ思想における革命は、複数の考え方があるが、少なくとも「自然現象としての『革命』への反作用」という考え方は共通していた(革命を起因した武力革命論を含め)。それを表すために、この冊子において「反革命者」と「九大革命家」という偉大な存在を並べて示すことは重大な意味を持っている。
また、文字上における近さ(レーベンシュタイン距離と言ってもいい)はヴィトゥアによる教識学の伝統にも繋がる。この文章が評価されるのは、ウォルツァスカイユらが市民にとっての「敵」を表すステロタイプとしての「フェンテショレー」という語の認識を矯正するためにこのような複数層のアプローチを使って、この文章を作り上げたことにある。
やさしい正しいイェスカ主義
やさしい正しいイェスカ主義(
fyrfsyki'd jeskaverasti
、日本語版)とは、幼児から初等教育向けのイェスカ主義教材である。この冊子もターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユによって書かれた。ウォルツァスカイユの専門である家庭学(
dystisestawen lyrsta
)を応用した形で、子供にわかりやすくイェスカ主義を解説するものになっている。ここで重要なのは、思想家たるウォルツァスカイユ的なイェスカ思想の解釈は、先に挙げた教本よりも出ているということにある。ウォルツァスカイユは後に、民主イェスカ主義という形でイェスカの説得主義を強調した思想展開を行うが、その前触れは本書において現れている。ファールリューディア宣言から解説する本書は、非常に分かりやすく具体的な形でのイェスカ主義教条を提供している。
そんな本書の中に、後世になっても取り上げられる文がある。
irfel jeska es fontlesa'd klantez kyluseser fon yuesleone'd medarne'd
lertasal.同志イェスカはユエスレオネ共産党の偉大な最初のリーダーです。
先に述べたようにユエスレオネ革命においては、複数の派閥が旧政府に抵抗した。そんな中で、主軸となったイェスカ主義者たちは統一的なナショナリズムを形成する必要があった。その最初の段階が、本書であった。
内戦の最中、人々は様々な目的と理解に基づいて戦っていた。しかし、内戦が終わり、イェスカ主義者が政治の主軸を握ると「革命の解釈」が行われるようになった。すなわち、ユエスレオネ革命はイェスカ主義による革命で、イェスカを主軸としたものであったという歴史観が共有されるようになったのである。
第三政変以来、「革命」はイェスカ主義的では無かったと捉えられるようになったなかで、イェスカを「偉大」であるとする見方を打ち出す本書のこの一文はプロパガンダ的であると捉えられ、記憶に残る一文として扱われるようになったのであった。
学生運動時代のユエスレオネ人にとって、イェスカはまさに「人間的」であったとする解釈が流行することになる。彼女の「英雄性」3を否定し、新たな思想的問題である「人間性」を考察する時期において、この一文は「英雄性」の時代を象徴するものとして記憶されるようになったのであった。
革命序説
最後に紹介する革命序説(
fassarcieso xol
)は、ターフ・ヴィール・イェスカによる小説である。ストーリーとしては、ピリフィアー歴19世紀に改革派教法学者フィシャ・ステデラフの教法学的革命権に基づき既存権威の破壊を目論む運動が過激化するなか、そのうちの一人であるフィシャ・アルヴェーデャ(
fixa.alverdia
)の運動とその終焉を描くものとなっている4。イェスカがここで描いたのはユエスレオネ革命の姿ではない。そもそも、イェスカが本書を書いた当時はまだユエスレオネ革命は始まっていなかったのである。この本が革命の後に注目されたのは、イェスカの「理想」をそこから汲み出そうとする文学的な営みが行われたからであった。イェスカ主義が文学批評にまで適用されるのは、この後のことになる。革命序説以降の文学は、異なるウェルフィセルとの接触を題材とするWD文学(
krantierlyr fon la waxundeen-dusnijrakrantien
)や革命の時代を反映した革命小説が流行っていた。しかし、革命序説はそのような新しい時代の認識以前の素朴なイェスカの考えが反映されていると考えられたのである。
そんな本書が残した一文は下の通りだ。
"fenton lkurfelesti!"
「ことばの自由を!」
活動家である青年フィシャ・アルヴェーデャが抗議集団の先頭に立ち、発破をかける。その際の言葉が、これである。
一見すると、何のことはない素朴な文句だ。しかし、真意を知るにはイェスカの記憶に残る時代背景と文法知識が必要である。まず、先の言葉は "
fenton
"「自由に、好きなように」という副詞と "
lkurf
"「言う」の動詞連体形派生語尾(方法)が付いた形 "
lkurfel
"「言い方」の呼格形 "
lkurfelesti
" である5。すなわち、直訳すればその意味は「自由な言論を!」だとか「好き勝手に喋らせてくれ!」というようなニュアンスになる。
しかし "
lkurfel
" には「言語」という意味もある("
fladshar lkurfel
" というとフラッドシャー語を表すことがある)。このため、このフレーズにはもう一つの意味が生まれる。
つまり、先の文は「自由な言語を!」という意味にも取れるのである。イェスカの学生時代はファスマレー国語化運動などが活発に行われてきた「言語権」の時代だった。ユエスレオネの現代評論家の共通した意見として、イェスカは主人公のこの言葉に二つの意味を込めて、一つの意見を表明したのだと考えられている。それは「多くの人々の言語権が保証される社会こそが、自由な言論を認める基礎となる」というものだった。ファスマレー国語化運動は、当初こそ暴力的鎮圧の憂き目に会ったが、最終的にラネーメ共和国においてファスマレー語を国語化し、教育体制を整えていくことを宣言させることに至った。このような過程を見ていたイェスカは、言語こそが社会の基盤であると考えたのではないだろうか。
そして、そのような彼女の考え方は、シャーシュ学派として継承され、ユエスレオネ時代では多言語社会統合発展言語行政枠組みや言語集中政策の成立に繋がることになった。
革命序説の主人公の一言は、それが読み取られた時代背景と共に現代へと至るリパラオネ思想における言語権理論の方向性を指し示していたとして、重視されているのである。
まとめ
革命直後の冊子には、その時代の人々を教導し、新しい時代に引き入れる役目を持ったものが多い。その背景は思想的ではあるものの、時代背景や独特な社会問題などを含んだ複層的な物を編み上げている。
そういった時代を経たリパライン語には幾らかの遺産が残っている。その遺産は、後の時代においてもその形式を継承し、考察が続けられている。
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