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Fafs F. Sashimi
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民族叙事詩の「そのとき」  ユーゲ人について

「彼の最期を起こせ」

 ユーゴック語で書かれた民族叙事詩「正義ある処」(Bwa H'ansum Ro'raaos)は、突然人の処刑場面から物語が始まる。
 ユーゲ人の核ともいえるスカルムレイが一人、マフ=スカルムレイの暗殺事件の首謀者として彼は処刑される。その最期を見届けようと集まった民衆は彼を殺せと声を荒げるのである。

Sokaunar bi kentrom fo mantue irionin,
Pa f’an hoorudis, sur he Kunrei patei.
Sehon yarbar arsam bi karn raam h’ateonin
Mo toonin fo mantue: “Pu karn der johei!”

罪人は人々の視線に囲まれる。
彼は倒れず立ち続ける。クンレイがしたように。
まもなく分断される肉体で執行は決定される。
「彼の最期を起こせ」という人々の声によって。
Phaatar 29 - 32: Bwa H'ansum Ro'raaos

 この際の表現に着目してみよう。
 注目するのは「彼の最期を起こせ」という人々の声である。
 "karn der"というのは、ユーゴック語的には三人称男性属格代名詞と「最後」という意味の名詞からなる表現で、この "der" という一般名詞には「人の死」という意味はない。しかし、文脈から人の終わりという意味を読み取っている。
 彼らの信仰するトイター教では、神の定めた規則に従い生きることを基本的な人間の存在肯定の基礎(第一段階のイミル)として捉えている。そのなかでも処刑されたドーリムが代表するアッタクテイ派は "derbanjerii"「無による罰」という概念を持っている。この "derbanjerii" という単語は「死ぬ」という意味の自動詞でもあり、その他動詞形(殺す)は "derba" で、明らかに "der" が含まれている。
 叙事詩の筆者がこの語を選択したのは、アッタクテイ派の暴力的な宗派闘争の中で大罪を犯して、処刑されるドーリムの無常さを表しているのではないだろうか?
 トイター教には六信と呼ばれる信じるべき普遍真理があり、その中の一つに諸行無常(armotekyamn)がある。
 あらゆるものは移り変わり、ドーリムらアッタクテイ派が目指した「正しいトイター教」も時代と人の巡り合わせの中で変わっていく。
 過激派は彼らの後も出現する。タイロナル、シーナリア派、アインスステ派。そのような過激派は常にスカルムレイの統治するハタ王国の元で、平静を求めるユーゲ人たちと対峙しては滅び、または沈静化していく。
 叙事詩の筆者は、そんな「民衆の声」をここに表したのかもしれない。

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