Migdal

A.I.
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「ズーク」の話――企画挨拶に代えて

⚠️ この記事には小説のネタバレが含まれています


SF 作家の森岡浩之といえば、架空の言語「アーヴ語」が登場する『星界の紋章』シリーズの作者としてご存じの方も多いとは思いますが、初期の作品を集めた『夢の樹が接げたなら』という短編集を出しています。その中には言語を主題とした小説が 2 篇収録されており、1 つは表題作である『夢の樹が接げたなら』、もう 1 つが『ズーク』です。

この作品は最初、普通の(ようにみえる)単語と未知語が入り混じった奇妙な語り口で始まります。タイトルである「ズーク」というのも実はその未知語の一つで、しかも何の関連もないようなものたちを指すのに頻繁に使われ続け、読者を混乱させるのに一役買っています。

後半、突如として外部の人間が登場し、主人公たちが遭難した宇宙船のシェルター内で二人きりで暮らしてきた幼い兄弟であることが判明します。その時のやりとりから、彼らは亡き母に習った単語をすべて固有名詞と解釈した言語体系で話していることが明らかになります。母は弟を出産した時に死に、狭いシェルターの中の備品はほぼ何もかも一つずつしかなかったためです。それは兄の体の部位と弟の部位、父(先に死亡した)の墓と母の墓、自然を模した生命維持装置の産出する木の実の一つ一つにさえ別の名前を付けるほど徹底しています。そして母が死んだ後に独自に命名したものが、先に登場した未知語の正体だったというわけです。

ところで「ズーク」はというと、その言語の中で唯一の「一般名詞」と呼べるものです。というのも、新しい意味のある物体に遭遇した時には兄がそれをアプリオリに命名するのですが、その手続きを経ていないものはすべて「ズーク」と呼ばれます。すなわち「名づけられていないもの」「名づける意味がないもの」「その他すべて」という意味を表しているのです。

「ズーク」という単語は、おそらく母からの借用ではなく、この兄弟の独創でしょう。そうだとするならば、物語の本筋からはそれますが、これはある意味一つの大きな発明ともいえます。なぜなら、この言葉は明確に「分類以前のもの」「自分の知識体系で整理できないもの」をくくり出している、稀有な概念だからです。

これは確かに、「すべて物体は固有名詞であり、世界の中に一つとして同じものを許容せず、それゆえ個物の峻別(と不可能性)を強制する」というこの兄弟の言語体系のサピア=ウォーフ的な産物であり、作者の人工的な創作かもしれません。しかし我々に「ズーク」という語がないのは、それを必要としないからではなく、むしろ何かが「ズーク」かどうか我々が気づかずに言語を運用しているのではないかという気がしてきます。

我々は、多様な一般名詞が天地の隅々まで覆いつくしているかのようなこの言語世界を生きていますが、自分と他者の区別や、身の周りにある限られた個物どうしの関係は取り扱えても、その実、自分の感覚に触れることのない類概念の境界をどれだけ判別できるでしょうか。自分の知識の及ぶ限界について、どれだけ明示的に認識しているでしょうか。それらが一般名詞であるがゆえに、自分の知る有限の概念が際限なく確かさを担保してくれると過信して、見ていないものを見たかのように、知らないものを知っているかのように思い込み、意図とは違う個物を振り回したり振り回されたり、はたまた大切な違いを見落としたりすることが、世間にあふれる多くの不幸の遠因ではないでしょうか。

物語の終盤、救助隊から一般名詞となる概念をいくつか獲得しつつある弟と、それを拒否する兄がお互いの右手を合わせて、同じ名前で呼ぶべきかどうか言い争うシーンがあります。これも、ある事実を思い起こさせます。

かの『ピダハン』にも紹介されているように、一部の小さな狩猟採集民は数の概念に極めて乏しいようで、概ね 3 を超える数は認識しないとか、その数詞も正確な数値を表さないなどといわれます。彼らの生活にはそれほど多くの同一物を正しく扱うニーズがないためでしょうが、同書によれば必要に迫られて数を教わろうとしても成功しなかったそうです。それはもしかすると、「同一」というあたかも我々側が合意しているかに使っている概念自体が、彼らには奇妙に映ったのではないでしょうか。意味のある組も成さない不定数の個物――実際には一つとして同じ形、同じ大きさの「リンゴ」はない――をまとめて「同一」とみなし、それらに関係性を持たせようとする行為がいったい何の役に立つのか、想像がつかなかったのではないでしょうか。それは翻って、我々の社会が習慣的に多数の個物を、現実の対応物は一つも存在しないであろう数学の元であるかのごとく、ある意味恣意的に運用する行為はなぜ可能か、何を意味するのかという、類の概念に対する本質的な疑問の一側面といえそうです。

考えてみれば、この作品には「名づけの権力性」とか「観察者との関係」といった、多分に人類学的に面白い描写も含まれ、作者の言語行為に対する深い洞察が垣間見えます。少なくとも、我々の現実世界もこの兄弟と同じくらい、気づくと気づかないとにかかわらず、密度的な意味でも、外延的な意味でも無限の「本当はズークであるもの」に囲まれているのだということを、時々でも思い出したいものです。

筆者はこの「ズーク」という概念が大変印象深く、このサイトはありがたいことに多くの協力者の方々に恵まれ、Migdal という名前をいただきましたが、当初誰も協力者が現れないだろうという悲壮な覚悟(笑)をもって作られていた頃は、「ズーク」という名前も候補の一つに考えていたくらいです。しかしめでたく固有名詞を獲得したうえは、これからもみなさんの世界の中に長く特定の場所を占め続けていければと思っています。どうぞよろしくお願いします。

というわけなので、ぜひどなたか、次の記事を書いてください!!!
🥺

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