ンソピハさんが書いた記事から人工言語創作論を書くということが広まっているようで、私も興味が出てきたので書いてみようと思う。
なお、私が今作っているウステル語はそれ以前の言語とは作り方が色々と異なるので、今回はウステル語以前の言語についての作り方を書くことにする。
しかし、私の記憶力というのは本当に低いもので、おおよそ1年前ぐらいから(何故か)ウステル語以外の言語を作らなくなってしまったのだが、そのせいで私が以前どのようにして言語を作っていたのかを結構忘れてしまった。
なので、部分部分記憶が抜け落ちているところは仕方ないとして、なんとか書ける部分は頑張って書いてみることにしよう。
作り始めたきっかけ
直接的な原因はエスペラントにある。中学生か、もしくは高校生の頃にエスペラントというものを知り、それについてのWikipedia記事を見ているうちにエスペラント以外にも様々な人工言語(特に創作言語、芸術言語の影響が大きい)があることを知って、なら自分でも作ってみようと思って作り始めたというのが大まかな流れである。
実際のところ、インターネット上に公開し始めるよりも前から人工言語は作ってはいた。その頃に作った言語は特に誰かに見せるというわけでもなく、一人でB5サイズのノートにまとめては、それを見てニヤニヤしたりしていた。
まあ、変人である。
どのように作っていたか
- 1 どのような言語を作るかを考える
考えるというよりも、ふと思いつくというべきだが。
思いつく内容はまちまちで、例えば「モンゴル語みたいな響きの言語を作りたい」とか、「日本語みたいな文法でドイツ語っぽく聞こえる言語を作りたい」とかの大雑把なものもあれば、「抱合語を作りたい」とか、「母音調和のある言語を作りたい」というもう少し具体的なものもあったりする。
しかし、いずれの場合にしても明確な目標は無いことが多い。
- 2 音素を決める
ほとんどの場合、文法や語彙などよりも先にこれを決めてしまうことが多い。これは、私が音素や文字を言語を組み立てるためのブロックのようなものとして見ており、言語を作るためにはまずこのブロックを様々に組み立てたりしないとどうにも手がつけられないから。
しかし、音素を決めるとは書いたが、実際には文字を決めると書いたほうが良い。
ほとんどの場合、先に使用する文字だけ決めてしまい、それらの文字をどのように発音するかは後回しにしてしまうことが多い。
- 3 単語を作りながら文法を作る
初期段階においては、語彙と文法はほとんど同時並行的に作る。
よくあるパターンとして、先に「人」「木」「歩く」などの単語を数個作り、試しにその語尾を変化させたり、あるいは付け足したりして文法を組み立てていくことが多い。そうしているうちに文法の方は段々と手を加えなくなる。そうなったら文法についてはある程度基礎になる部分は完成したものとして見る。
語彙は、そもそも完成するものとしては見ていない(場合による)。基本、思いついたものをとりあえず作って追加するのを繰り返す。
- 4 例文を書く
自分で文を考えるかもしくは本などから探し、実際に文を書く。最初は3〜5語で、そこから進行度合いを見て単語数を増やしたりする。
この時新しく作った表現や語彙や統語論的な文法事項をその言語の文法や辞書に加えていく。
- 5 3と4とを繰り返す。
これはそのまんま。文章を書いては語彙や文法を作って、そうしたらまた文を書いて… というのを繰り返す。
先にも書いたが、ほとんどの場合において明確なゴールというか、目標は無いので、この作業を延々と繰り返しているうちにまた一つ新しい言語を作り始め、やがて今までの言語は古いノートの地層へと埋もれてゆく…
(SNSアカウントとかを作る前はインターネットに公開するということも考えていなかったので、管理もだいぶ雑だった。もっとちゃんと管理しておけよ俺…)
理想の言語の形
正直なことを言うと、私には理想の言語像というものは無い。一応、ウステル語というのは「印欧語だけど今あるどれとも似ても似つかないような言語」として作ってはいるのだけれども、別に印欧語族の言語が崇高だとか、優れた言語だとか、そのように思ったことはない。
と思ったけど、そういえば私こんなツイートしていたな。
たぶんここで言うところの憧れというのは、個人的な好みのことであって、今までの言語にもところどころにその要素は入れたりはするけど、だからと言ってそれが優れたものであると考えるかとかはまた別の話、ということだと思う。
いやよく分かんねえわ。どういうつもりでこのツイートをしたのか分からん。
ともかく、少なくとも今は理想の言語というものは無い。
まとめ
私が思っていたよりも沢山記憶を掘り返せたと思うので、少しは安心した。(?)
基本、私の行動は場当たり的なので、自分の行動を後から見返してみても何がしたかったのかわからないということも大して珍しいことではない。
そんな私でもなんだかんだこれぐらい(「これぐらい」が他の人にとっても良いことかはわからないが)の事はできるので、まあ、好きにやったら良いという事である。
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なんだかほのぼのとした気持ちになる記事でした!(?)