リパライン語の世界にはケートニアーとネートニアー1という二つの人種が存在する。
これは、非常に不正確ながら簡単に言えば「魔法が使えるか使えないか」の違いである2。
前者のケートニアーはウェールフープと呼ばれる異能が使える人種であり、後者のネートニアーに対して古くから優位的な地位にあった。
現代になり、レシェール・イスナシュテイユという社会哲学者が「ヴォルシの構造的差別の歴史学」という論文の中で提唱したのが、シルシ(ケートニアーかネートニアーかということ)による差別が歴史的に構造化されてきたということであった。
その議論で提唱されるのが、ヴォルシ――シルシ性社会役割という概念である。ヴォルシは特定のシルシに対して与えられる先入観のことである。例えば、ケートニアーであれば軍人や警察官となって戦わなければならないといった先入観はヴォルシの一つである。
このようなヴォルシに基づく差別的言動はユエスレオネ連邦成立以降、「能力差別」として批判されてきた歴史的経緯がある。
しかしながら、リパライン語からヴォルシ的表現が消えたわけではない。
ヴォルシ的表現とは、単にシルシに関して言及することではない。
実例としてはスキュリオーティエ叙事詩の以下の一節が参考になる。
"Ci's yst ytus ler m'eskilst, faula ta liaxu."
「彼女が仮住まいから出ると、ファウラが立っていた」
――スキュリオーティエ叙事詩四章二十九節
これは叙事詩の主人公であり、リパラオネ人の民族英雄であるユフィアがファウラ(ネートニアーの女性のこと)を見かけたというシーンである。
ケートニアーとネートニアーは外見によって区別することは難しい。ウェールフープが使えるという事実によって判断すべき3なのに、ユフィアはここで一見してファウラであることを見て取ったかのように描写されている。
シルシを区別するウェールフープでもあれば、そういうことも出来るかも知れないがそういうものは存在しない。つまり、ここでの「ファウラである」という断定は違う意味を持っていると考えなければならない。
レシェール・イスナシュテイユが創始したヴォルシ学的な解釈では、ここでユフィアがファウラと言っているのは「戦場に向かないような可憐な少女」というネートニアーのヴォルシ性に基づいていると解釈する。
このように単なるシルシに対する言及ではなく、シルシの表現がヴォルシ性を持つことは「シルシ表現のヴォルシ性」としてヴォルシ学における一つの問題系を構成した。
ヴォルシ性を持つシルシ表現は一種の文化であるとして、肯定する人々も居る。フィシャ・グスタフ・フィレナを始めとするサラリス4は、ヴォルシ性はシルシの現実的な差異に基づく場合、差別ではなく現実の描写であるとして、17世紀の形式派歴史主義(celaveranasch philifiarvera)5に続く自然主義の産物として肯定した。また、過激な視点としてフィシャ・グスタフ・ヴェルガナーデャなどによる反ヴォルシフリーの立場からヴォルシ性をもつシルシ表現は「正しい」(julesn)という正義論に持ち込む論者も存在する。
一方で、イェスカ主義においてはシルシ表現におけるヴォルシ性はヴォルシ主義であるとして、不適切とする解釈が一般的である。
第三政変以降の現代ユエスレオネ連邦において、ヴォルシ差別は殆ど見られず、そういった考えはタブー視されている。しかしながら、リパライン語におけるヴォルシ性に対しては排除されること無く残っている。
この問題に対する議論は言語の本質に触れることになり、シャーシュ学派やサラリスが対立しつつ議論を続けている。
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リパライン語での発音は「ケートニャー」のほうが近いが、日本語文献においては慣例的にこう書かれる。 ↩
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「ウェールフープは魔法ではない」というテーゼが悠里内では非常に昔から存在するため、このような言い方は本来良くないが簡単のためにこう書いておく。 ↩
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現代においてはそれぞれのシルシの身体の解剖学的な違いが分かっているが、この時代においてはウェールフープに対する解釈が神話的解釈に繋がっていたため、体内の構造がシルシを区別するものと繋がっていなかった。このため、シルシを区別する方法はウェールフープが出来るかのみとなるため、ここでは表記しなかった。 ↩
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保守的言語思想家の総称。特にリパラオネ思想におけるそれを指し、近代保守言語思想の系統性を文脈に含む。 ↩
古い順のコメント(2)
「ファウラ(ケートニアーの女性のこと)」は論旨からして「ネートニアーの女性」ではないでしょうか?
単純ミスですね……報告ありがとうございます!