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Fafs F. Sashimi
Fafs F. Sashimi

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#04 エクリチュールの権威性と弁証法的自由

Inspired by The reality is sprouting of stringy bok choy.
この文章はフィクションです。
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現代標準リパライン語というとき、それはtranslingualism的な自由な言語的発露(エノンセ)ではなく、あるエクリチュールにおけるあるディスクールであるという規範性が我々の目の前に現れている。

ディスクールはそれが選び出されたというところにおいて、無意識以上の権威性を持っている。この権威性に対して関心を持つことは新たな言語的自由を拓く道となり得るだろう。これは現代標準リパライン語の規範性に対し、批判的な観点で見直しをかける試論である。

革命以前から形成された標準語

現代標準リパライン語が形成されてきた経緯に関しては、『共通語としての標準リパライン語の形成』に詳しい。多くの言語話者が住まうユエスレオネ連邦において、選ばれた現代標準リパライン語は中立的で公正公平な言語であるために規範が見直されている。しかしながら、そこにあるエクリチュールが起き上がり、あるディスクールが選び取られるのであれば、そこの権威性を見ずには居られないのである。

ヨーロッパ文化の源流にヘレニズムとヘブライズムがあることは、多くの思想家が言及しており、ヨーロッパの表象の場にその影響が色濃く影響していることは私が言うまでもないことである。同様に、ある文化が特化的に選択されることが、現代標準リパライン語という表象の場にもあるのだ。
例えば、現代標準リパライン語の三人称代名詞の体系が男性・女性・中性の3つに分けられることは、言語活動に先立って表象の姿を切り抜いていく。現代標準リパライン語の、そのような権威的な源流は果たして何なのだろうか。

弁証法的な自由

現代標準リパライン語は、ユエスレオネ革命を通して形成された。その思想的背景にはリパラオネ教リパラオネ民族英雄叙事詩イェスカ主義レヴェン思想ヴェルテール哲学などのリパラオネ思想に連なるエクリチュールを持ち合わせる。これが言語に固有な権威性を無意識に持ち合わせるのは、リパライン語の語法や文法がそのような側面から漂白しきれないというところから明白なのである。

それでは、単にこれらの思想から逃れることのみが、言語的自由の答えなのであろうか?
よく考えてみるとそうではない。これは人工言語のアプリオリ性の議論と同じである。あるアポステリオリ性から逃れるために、それを単に否定することはあるアポステリオリ性に依拠するのと同じくらいの参照性を表してしまうのである。異世界だからといって、文字を現世に無いような珍妙なものにすることはアプリオリ性の追求とは異なる。これに関してはskarsna ivane enectorija氏の単音節言語における同音異義語についての小論、もしくは『新しい嘘の質問は反対しない』の脚注2.を参照しても良いし、セレン・アルバザード氏のblenzelの指摘を参照しても良い。とにかく、「珍妙さ」と「アプリオリ性」は厳密には異なるのだ。

言語的自由への道は、弁証法にあると私は考えている。
ヘーゲルの「奴隷と主人の弁証法」は、矛盾が世界を稼働させていることを如実に表している。普通の認識では、奴隷は主人に支配されているという構造を素朴に認識しているが、逆に言うと主人は奴隷の労働によって自由になっており、奴隷は主人の自由を自らの労働によって支配しているとも言うことが出来るのだ。
この相互に支配され成り立つ構造は、新たな言語的自由にも適用できるはずだ。リパライン語をリパライン語なし得ている構造を明らかにし、それに沈溺することによって、支配構造を逆転した自由を見出すことが可能なのである。それこそが、リパライン語によって言語的自由を歩むための方法、弁証法的・言語的自由なのである。

まとめ

現代標準リパライン語というとき、そこには固有のエクリチュールが存在しており、その権威性を考慮することで、言語的自由への道が拓かれるかもしれない。
このような権威性は、言語が由来する文化(宗教、文学、思想、歴史)によって無意識に構成されている。素朴な自由への追求はこれを回避するものであるが、それは本来的な自由の追求になり得ないということが分かった。私はこれに対する解決として弁証法的自由を提示した。それはリパライン語をリパライン語なし得ている文化そのものに沈溺することを通してこそ、新たな言語的自由が得られるというものである。

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