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Fafs F. Sashimi
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#03 言語行為に予め影を落とす

Inspired by The reality is sprouting of stringy bok choy.
この文章はフィクションです。
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「戦争状態は道徳を宙吊りにする。戦争状態は、いつの世も変わらず永遠だとされた制度や義務から永遠性を剥ぎとり、それによって無条件な命法をすべて一時的に無効にする。戦争状態は、人間の行為にあらかじめ影を落とす。戦争は単に道徳が生きる糧にする試練の一つに――最大の試練として――数えられるだけではない。戦争は道徳を笑いの種にしてしまうのだ」
――『全体性と無限』p.15(エマニュエル・レヴィナス著、藤岡俊博訳)

ある言語の話者であるということが注目される瞬間がある。それは良い意味でも、悪い意味でも存在している。
我々の時代が紡いできた安住のエクリチュールの中に紛争は突如として影を落とす。そうして出来た暗渠に、素朴な人々が根詰まりを起こす。だからこそ、ウクライナにはロシア語話者のウクライナ人が居るのに、日本の公共交通機関などでロシア語の記載を無くそうなどというちぐはぐなことが起こってしまうのである。

似たような状況は、ユエスレオネ革命から東諸島共和国連合へと亡命した人々にも現れている。分かりやすいのが、「異世界転生したけど日本語が通じなかった」の第四部(#199 恨めしい言葉)である。

"Er, no ler coss veles cesnerto fai PMCF'd korxli'a'd sopit lu."

「えー、これよりあなた方は東諸島共和国連合難民法に従い管理されます」

これはユエスレオネ内戦から亡命してきた翠たちにPMCFの職員が掛けた最初の言葉だった。
たしかに彼らの間ではリパライン語はある程度用いられている言語ではある。しかし、その言葉には、こなれていないことから来る一種の堅苦しさが内包されている。ニュアンスの問題ではあるが、人に対して "cesnert"「管理する」という言葉を使ったりするのは、相手を人ではなく、書類の中の文字として扱っているような聞こえ方がするのだ。

"Fqa l'es 3'd larta melfert en'iar fai misse'd lurykreso. Selunussustan tydiest menas lerssergal lu."

「そいつの三人は我々の指示に従い職を探します。その子供たちは公立学び舎に行きます」

先の言葉に、これが続いている。職員が述べた "fqa l'es" で人を指す用法はぎこちなさと不遜な態度が現れている。そして "menas lerssergal"「公立学び舎」という言い回しは標準現代リパライン語の用法として不自然なものである("menas jesnyp" と言うのが一般的である)。

何故彼らは、言葉に不慣れなコロケーションと、信頼を損なうような態度を同居させているのだろうか?
それにはやはり、当時の政治的な情勢が関わっているのである。

翠たちが降り立ったアイル共和国は、学生運動の只中にあり、ユエスレオネ連邦からの亡命者を受け入れたと言っても不安定な情勢下にあった。一般層からもユエスレオネ連邦から来る人々は外国人という印象が強く、政府の役人であっても不安定な情勢下での支援という立場で不安感を拭えなかったのである。

戦争状態は、人間の行為にあらかじめ影を落とす。人が既に与えられた文法や正しい言葉遣いの規範に従うよりも前に、実際の言語行為の場においてはそのような社会の状況が言語に影を落としているのである。そのような影響が言語に与えている影響を注意深く観察することは、リパライン語がただ単に規則と語彙の集合ではないというリアルな言語の場において発話されているということを傍証するものである。

まとめ

紛争は、いつの世も変わらず永遠だとされた制度や義務から永遠性を剥ぎとり、それによって無条件な命法をすべて一時的に無効にする。
無条件な命法――即ち、カントの述べたような定言命法は非常に強い絶対的な命令である。それに比べれば、言語の文法や語法の取捨選択は弱々しく影響を受けざるを得ない立場に立っている。リパライン語が単なる弱々しい法則やゲシュタルトの集合体に過ぎないのであれば、先に述べたようなエクリチュールの影の部分が出てくることはないのである。
選び取られた言葉に影が落ちるような表象が存在していることこそが、リパライン語がリパライン語として存在する現実性を指し示している。そのような逆説的な構成がリパライン語を単なる単語帳以上のものであることの証明としているのである。

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