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Fafs F. Sashimi
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#06 翻訳不可能性と言語固有の価値

Inspired by The reality is sprouting of stringy bok choy.
この文章はフィクションです。
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翻訳論に関する題材は、以前2021年に「"Xelken xel ken"をどう訳すのか」という記事で取り上げた。

異世界ファンタジーにおける文化依存的な語句は、翻訳によるものであるとして解決する風潮が存在する。それは極めて同化的翻訳の立場に立っており、翻訳の倫理学から見て、異世界の固有性を捨て去ってしまっていると捉えることも出来るのだ。しかし、日本における異世界ファンタジーは読者に対する共通の認識基盤を提供するためのものであって、異世界の固有性に対する欲求は端から強く望まれているものではなかったと考えることができ、もしそうであれば最初に述べた文化依存的な語句を翻訳と見なす解決法は不適切なのではないかという提案が、先に挙げた記事の議論であった。

一方でリパライン語による文章は昔から、翻訳不可能性を言語の固有の価値として捉える立場から、翻訳の難しい文章の創作に重点を置いてきた。
しかし、単に翻訳が出来ないことがリパライン語の「リパライン語がリパライン語でなければならない価値」を創造している訳では無い。
翻訳不可能性とともに、現世の人間が認識できる意味の隙間が同居していることが、リパライン語の固有価値を作り出しているのである。
それがよく分かる一例として、以下の翻訳を挙げよう。

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この翻訳は過去にとある「小説家になろう」投稿者が、異世界ファンタジーの作品を書いていた際に、読者から文化依存の濃厚な表現を指して指摘されたとして話題になったときにリパライン語でその表現を訳したものである。
これは文化依存の濃厚な表現をリパライン語の表現に置き換えているだけのように見えるが、同時にそれは日本語に置き換え不可能な文化性を含んだものになっている。

意味を取り逃し続けること

リパライン語の固有の意味は日本語に訳されると同時にそれを取り逃し続けているのである。延々と取り逃し続けられる意味の運動によって、リパライン語は私たちに理解されながらも固有の価値を保ち続ける。

例えば、リパライン語の "lkurf" という単語は日本語においては「話す」と訳される。しかしながら、実際のリパライン語の文章の場所では意味はゆらぎ続ける。そのゆらぎはリパライン語の他の単語や文脈、文法的力学との距離感によってリパライン語の固有なものとして現れる。それと同時にリパライン語が日本語と出会った際にも同じように距離感を元に意味の固有のゆらぎを表すのである。

この意味のゆらぎの運動がリパライン語の固有性――リパライン語がリパライン語として存在する意義、存在意義(Raison d'être)を指し示しているのである。

意味の差延

我々は "lkurf" の意味を「話す」としてラベリングして、管理して、標識として使えるようにしている。しかし、それが本質的な意味理解なのかと言うとそうではない。実際の "lkurf" という語は複数の単語に囲まれた統語的環境、文学的環境で遠ざかったり、近づいてきたりするものである。

このような意味のゆらぎに固有性を見出していることに、私たちは「リパライン語」という言葉を使うのであって、結びつかない文法書やら辞書やら文字のカオスとは異なる。お互いの意味を根ざし続けるドゥルーズのリゾームのような存在がリパライン語の本来の姿を指し示してくれている。

まとめ

リパライン語と翻訳不可能性、或いは翻訳可能域のゆらぎはそれとして、固定し、地に大きく足をつけた巨人とは異なり、常に他者の方向へと拓かれていくことによって固有の意味、力学を持つに至った。
このような取り留めることが難しいゆらぎの中に生まれる意味や力学をこそ、リパライン語をリパライン語なし得ている存在なのである。
これは、ソシュールが「言語には差異だけが存在している」(Dans la langue, il n’y a que des différences)と述べたことにも繋がってくる。常にゆらぎ続けるが、体系として一つにあるリパライン語、という形こそがリパライン語を言語らしくさせている要因の一つとなっているのである。

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