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Fafs F. Sashimi
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#07 翻訳による再創造

Inspired by The reality is sprouting of stringy bok choy.
この文章はフィクションです。
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翻訳は、シニフィアンまたはシニフィエの単なる交換ではないというのは、短文であっても翻訳を経験した人間には分かりやすいことだろうと思う。
ある言語において、恣意的な結びつきによって生成されるシーニュ(記号)を分解することは容易いことではなく、ただ単に表象を置き換えても、うごめく意味が同一になることはほとんど無いのである。

当然のことであるが、「犬」というシニフィアンをランダムに別のシニフィアンに置き換えただけでは、翻訳にはなっていない。記号内容のゆらぎに合わせて、適切なシニフィアンを選択することが翻訳の基本的な手続きとなっているのである。

こうした前提によって翻訳はテクストに対して二つの層の生成的展開を見せている。
まず第一に分かりやすいのは、翻訳によって生み出される対象言語側のテクストである。これは翻訳結果ということになるわけだが、先に述べたような適切な表象と差異の選択の妙技が表されている。

第二に、翻訳元の言語側のテクストが『再創造』されているという点に重点を置く見方である。普段通りに読まれていたテクストが、翻訳を行う際にいつもは気に留めても居なかった差異や区別が明らかになっていく、あるいは筆者すらも思っていなかったことを翻訳の過程においてほぼ強制的に選び取ることを要求するという場面すら発生しうるのである。

編み合わされるテクスト

翻訳元のテクストは翻訳される際に、二重の層をなして、新しいテクスト素を生み出す。
それが行われていたのが「アレン・ヴィライヤの言語調査録――“先生”は荒事に好まれている」"d'alen.vilaija, lirnastiの関係である。

この作品は、本来日本語で原文が書かれていたのだが、それは本来その時点では存在しなかったリパライン語のテクストを意識したものであった。このために出てくるのが、翻訳元のテクストの実現である。

登場人物は共通言語の現代標準リパライン語を離しているのだけど、原文だと

"Mal...... Lurn co es len vilaija zelx edixa lu lerxne dira e'l?"
"Ja, mi es ALEN.vilaija."

となる。

— Fafs F. Sashimi @ la lex klie fal nalastan (@sashimiwiki) March 16, 2020

アレン・ヴィライヤは主人公で言語翻訳庁言語特務局に所属する言語調査官、会話している相手はシア・ダルフィーエ・シアラ(言語保障監理官)、レーシュネ長官というのは主人公が居るラッビヤ居留区行政庁の臨時行政長官で、アレンの名前を呼ぶたびに間違えるという特徴がある。んで、本題はここからで

— Fafs F. Sashimi @ la lex klie fal nalastan (@sashimiwiki) March 16, 2020

原文では実は"len vilaija"「ヴィライヤ先生」と"alen.vilaija"「アレン・ヴィライヤ」で掛けてる。リパライン語では「間違ってもないけど合ってもねえな……」というネタになる。だけど、日本語訳では分からないから、主人公が一旦レーシュネが名前を呼び間違えなかったということになっているんよね

— Fafs F. Sashimi @ la lex klie fal nalastan (@sashimiwiki) March 16, 2020

元テキクトからの翻訳という体で作った文章であったとしても、原テクストの創造がなされているのがよく分かる。これが翻訳元があったとしても、原テクストの再創造が行われるのは理解できることだろう。この作品ではこのようなことが良く行われている。

翻訳は情報量の脱落を生むことがある。それは先の例でいうところの「間違ってもないがあってもない」というニュアンスであったりするところである。しかし、ここで言いたいことは翻訳によって原テクストに対する豊かさが増すこともあるということである。

原テクストが気づいていなかったことを、翻訳先言語への翻訳を通して気付かされることがある。
良く言われているのが松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」に関する翻訳である。
数を厳密に表現する英語などの言語に訳す際に "a frog" と考えるべきか "frogs" と考えるべきか。日本語では「普通」や「常識」、「無意識」によって見過ごされていたことが、英語に訳すことによって表面に浮かび上がる。こうすることによって、それ自体が優秀だったテクストが更に価値を増して輝いて見えるのである。

まとめ

翻訳はただ単に言語Aを言語Bに写し取り、削り取るだけではない。翻訳は言語Aに対して言語Bの観点の照射を受けることによってテクストが更に豊かになっていくという営みなのである。
リパライン語もまた、最近はレーネガーディヤなどで原語としてテクストを書いているし、漸進的に様々な翻訳も行っている。これらの取り組みはリパライン語が言語としての豊かさを更に増していくための営みなのである。

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