序論
前回(その2-1)では、光語を成立させるための舞台装置として、赤色矮星セファエルとその周囲の天体系を設計した。主星の低光度、惑星ルブラリスの公転軌道0.113 AU、7.85日の準同期自転、そして磁場を維持するための潮汐加熱システム——これらすべてが、「薄暗く、音声言語より光語が有利な環境」を作り出すための骨組みだった。
しかし、舞台の骨組みができたからといって、そこに生命が住めるわけではない。最も重要なピースが、まだ欠けている。それが「大気」だ。
大気は単なる空気ではない。少なくとも二つの決定的な役割を担う。
第一に、生存環境としての大気だ。
前回見たように、ルブラリスは主星から0.113 AUの位置にあり、受け取る光は地球の約4分の1に過ぎない。このままでは惑星は凍りつき、海は氷に閉ざされる。液体の水を保つには、強力な温室効果が必要だ。つまり、大気組成こそが、この世界の気温を決める。適切な温室効果ガスを、適切な濃度で配合しなければ、生命は存在できない。
第二に、そしてより重要なことに——大気は「音声言語を使えなくする装置」でもある。
その1で述べたように、地球環境では音声言語が圧倒的に有利だ。遮蔽物を透過し、省エネルギーで、多人数に届く。光語が主流になるには、この優位性を覆さなければならない。そのカギが、実は大気組成にある。
考えてみよう。音は大気の振動だ。大気の密度、組成、圧力——これらすべてが音速や減衰率を左右する。もし大気が「音を伝えにくい」性質を持っていたら? あるいは、呼吸そのものに致命的な制約があったら? そのとき初めて、光語は音声言語に対して優位に立てる。
さらに厄介なことに、フレアと変光への耐性も必要だ。赤色矮星は激しく変光する。大気組成が不安定では、気候も生態系も崩壊してしまう。温室効果、生理的制約、変光耐性——これら三つを同時に満たす大気組成を見つけ出さなければならない。
では、どの温室効果ガスを使えばいいのか? CO₂か、それとも別の何かか? そして、どれだけの濃度が必要で、それは生物にとって安全なのか?
答えを出すには、一つずつ候補を検討し、物理法則と生物学的制約の狭間で、唯一の解を探し出すしかない。ここから先は、地球の常識を水平展開する惑星科学と生化学の総力戦だ。
前回で天文学・地学の理屈にお付き合いいただいた読者には申し訳ないが、今回も同じくらい——いや、それ以上に理屈っぽい話が続く。しかし、これは光語が「言語として成立する」ための、そして最も重要な基盤となる。
2. 温室効果と使えるガス
ルブラリスは公転半径0.113 AU、主星セファエルの光度は太陽のわずか0.2%に過ぎない。地球と太陽の距離の約9分の1しか離れていないのに、主星が暗すぎて、受け取る光は地球の4分の1程度なのだ。
アルベド(入射エネルギーを波長全域でどれだけ宇宙へ反射するかという全反射率)は、赤色矮星下では近赤外が卓越するため海は暗く(低反射)、氷雪も可視ほどは白くならない。ゆえに地球(A≈0.30)より低めのA≈0.20が妥当だ。
アルベドが低いということは、惑星は光をよく吸収するということだ。反射が少なければ、その分だけ温まりやすい。しかし、それでも足りない。この分だけ平衡温度はわずかに押し上がるが、なお約236 K(−37°C)前後に留まる。
これが「放射平衡温度」だ。温室効果ガスが一切ない場合、惑星が受け取る光のエネルギーと宇宙へ放射する熱がつり合う温度である。簡単に言えば、大気が何の保温もしなければ、ルブラリスは氷点下37度の氷の世界になってしまう。液体の水は、全圧4.5気圧で融点がわずかに上がるとしても、この放射平衡のままでは成立しない。
地表温度を25〜35°Cに保つには、温室効果ガスが不可欠である。つまり、−37°Cから+30°C前後まで、約67°Cもの昇温が必要だ。これは地球の温室効果(約33°C)の倍以上である。容易な要求ではない。
しかし、闇雲に濃度を上げればよいわけではない。生物が生存でき、かつ文明が発展できる範囲に収めなければならない。
温室効果の仕組みを簡単におさらいしよう。
太陽光(可視光)は大気を素通りして地表を温める。温まった地表は赤外線を放射するが、これを大気中の温室効果ガス(CO₂、H₂O、CH₄など)が吸収する。吸収された熱は一部が宇宙へ逃げ、一部が地表へ戻る。この「戻り」が地表をさらに温める——これが温室効果だ。
地球では約33°Cの昇温効果があり、これがなければ地球も氷点下18°Cの氷の世界になる。ビニールハウスが冬でも暖かいのと同じ原理だ。ただし、ビニールは物理的な壁だが、温室効果ガスは「赤外線だけを捕まえる見えない壁」として働く。
前提知識として、大気中の濃度を表す単位について説明しておこう。
ppm(ピーピーエム)とは「parts per million」の略で、100万分のいくつという意味だ。例えば、1 ppm は 100万分の1、つまり0.0001%に相当する。300 ppm なら100万分の300、つまり0.03%だ。
ppb(ピーピービー)は「parts per billion」の略で、10億分のいくつという意味だ。ppmのさらに1000分の1である。1 ppb は10億分の1、つまり0.0000001%だ。 これを気圧(atm)やヘクトパスカル(hPa)に換算するには、全圧を掛ければよい。ルブラリスの大気圧は4.5気圧(4559 hPa)なので:
ppm → 気圧への換算
分圧(atm) = 全圧(atm) × ppm値 / 1,000,000
分圧(hPa) = 全圧(hPa) × ppm値 / 1,000,000
例えば300 ppmのガスなら:
0.00135気圧(4.5 × 300/1,000,000)
1.37 hPa(4559 × 300/1,000,000)
比較のため、地球大気(1気圧 = 1013 hPa)で考えてみよう。地球のCO₂濃度は約400 ppmで、これは約0.4 hPa(1013 × 400/1,000,000)に相当する。つまり、地球大気の1013 hPaのうち、CO₂が占めるのはわずか0.4 hPaに過ぎない。それでも温室効果は発揮される。
では、どの温室効果ガスを、どれだけ使えばいいのか。まずは候補を並べ、使えないものを除外するところから始めよう。代表的なものを挙げてみると、以下の表のとおりだ。温室効果の「強さ」を比較するため、CO₂を基準(1倍)として、同じ分子数あたりの効果を倍数で示してある。
つまり、メタンはCO₂の25〜80倍、亜酸化窒素は300倍、フッ素系に至っては数千〜数万倍もの温室効果を持つ。わずかな濃度で大きな昇温が得られる——一見、理想的に見える。
しかし、それぞれに使えない理由がある。一つずつ見ていこう。
使えないガス1:フッ化物系
除外理由:自然界に存在しない
フッ化物系(CF₄、SF₆ など)は極めて強力だ。CO₂ の数千〜数万倍の効果を持つ。例えば SF₆ は 1 分子で CO₂ の約 23,000 分子分の温室効果がある。理論上、数 ppm で十分な昇温が得られる。
しかし致命的な問題がある。自然起源はごくわずか(稲妻・一部地熱など)に限られ、惑星スケールで持続的に供給できない。地球でも実質的に工業由来であり、原始惑星が高濃度を保持するシナリオは非現実的だ。ゆえに除外する。
使えないガス2:塩素系
除外理由:オゾン層を破壊する
CCl₄ 等の工業性ハロカーボンは CO₂ の数千倍と強力だが、自然生成は稀少で、塩素ラジカルが O₃ を触媒分解する副作用が大きい。将来的に O₂・O₃ 層が形成される段階で紫外線遮蔽を損ねるため、採用できない。
補足:CH₃Cl(メチルクロリド)のような自然起源の塩素系温室ガスは存在するが、濃度制御が難しく温室寄与は小さいため、主力からは外す。
使えないガス3:亜酸化窒素
除外理由:制御不能な変動
亜酸化窒素(N₂O)は微生物の代謝で生成される。地球でも土壌細菌が作る。温室効果はCO₂の約300倍と強力だ。自然界に存在し、生物が作れる——一見、有望に見える。
しかし問題は濃度制御が難しいことだ。N₂Oの生成は土壌の酸素濃度、pH、温度、水分など複雑な要因に依存し、予測が困難だ。
例えば、ある日突然、土壌が湿って酸欠状態になると、脱窒細菌がN₂Oを大量放出する。逆に乾燥すれば生成が止まる。季節や気象で濃度が10倍以上変動しうる。効果が強い(CO₂の300倍)ぶん、わずかな変動でも気温が大きく揺れる。
さらに、過剰になると生物毒性も出る。数百ppmを超えると麻酔作用があり、数千ppmでは呼吸を阻害する。
よって主力からは外すが、微量成分(5 ppm 程度)(≈0.023 hPa、0.000005気圧)として温室効果に寄与させるに留める。
使えないガス4:水溶性ガス
除外理由:雨に洗い流される
水溶性ガス(NH₃、SO₂、H₂Sなど)も火山から供給される。NH₃(アンモニア)は温室効果がCO₂の数十倍あり、火山や生物代謝で生成される。一見、使えそうだ。
しかし決定的な問題がある。これらは雨に極めて溶けやすく、大気中に長く留まれないのだ。
具体的に計算してみよう。地球の火山ガス組成では、水蒸気が70〜85%を占め、SO₂が2〜8%、H₂Sが0.5〜3%含まれる。ルブラリスでも似た組成と仮定し、年間の火山ガス総量を約2 Gt/年(ギガトン、10億トン)とする。すると:
SO₂放出量:約0.06 Gt/年
H₂S放出量:約0.2 Gt/年
だが、降雨で速やかに洗浄される。SO₂の大気滞留時間を約10日、H₂Sを約5日と見積もると、つまり火山から出ても、10日後・5日後には雨で洗い流されてしまうということだ。
大気中に同時に存在できる量は、「年間放出量 × 滞留時間 / 365日」で計算できる:
SO₂:0.06 Gt/年 × (10日/365日) ≈ 1.6×10⁹ kg
H₂S:0.2 Gt/年 × (5日/365日) ≈ 2.7×10⁹ kg
全大気の質量は、4.5気圧をざっと換算して≒2.6×10¹⁹ kgだから、体積比は:
SO₂:約0.06 ppb(10億分の0.06)= 約0.027 Pa
H₂S:約0.1 ppb(10億分の0.1)= 約0.046 Pa
ppbは10億分の1だ。ppm(100万分の1)の、さらに1000分の1である。hPaに換算すれば、0.001 hPa以下——つまり、ほぼ検出限界である。この濃度では温室効果はほぼゼロに等しい。
NH₃(アンモニア)も同様だ。海洋との再循環(海水に溶けた後、条件次第で再び蒸発)があっても、光化学分解と雨洗浄のため、高くて十数 ppb 程度(0.05 hPa以下)がせいぜいだ。 たとえ火山が活発でも、雨が降る限り、これらのガスは大気に蓄積できない。
以上の検討から、使えるのはCO₂、CH₄、H₂Oの3つだけだと分かる。
3. 高圧大気という切り札
残ったのはCO₂とH₂O、CH₄だ。この3つで+67°Cを稼がなければならない。しかし、ここで強力な味方がいる。それが「高圧大気」だ。
ルブラリスの大気圧は4.5気圧。**地球の海面が1気圧なので、その4.5倍の圧力がかかっている。常に深さ35mの海中にいるような圧力環境だ。これは単なる数字の違いではない。温室効果を劇的に変える要素なのだ。
高圧下では、温室効果ガスの効果が増幅される。理由は3つある:
(1)分子密度の増加
圧力が高いほど、単位体積あたりの分子数は増える。4.5 気圧なら密度はおおよそ 4.5 倍。つまり同じ空間に4.5倍の温室効果ガス分子が詰まっているイメージだ。直感的には「4.5倍の分子なら、温室効果も4.5倍」と思えるかもしれない。しかし、そうはならない。理由は「飽和効果」だ。
例えるなら、薄いカーテン1枚では光が透けるが、2枚重ねれば遮光効果は2倍になる。しかし10枚、20枚と重ねていくと、ある程度で遮光は頭打ちになる——すでに光が完全に遮られているからだ。温室効果ガスも同じだ。CO₂は主に15 μm付近の赤外線を吸収するが、濃度が上がると「吸収できる赤外線を吸収し尽くしてしまう」。これ以上分子を増やしても、吸収する赤外線がもう残っていないのだ。 専門的には「吸収帯の飽和」という。強い吸収帯(バンド)ほど、低濃度で早く飽和する。地球のCO₂(400 ppm)でも、15 μmのコア部分はすでにほぼ飽和している。
(2)圧力広がり(Pressure Broadening)
ところが、高圧になると話が変わる。分子の吸収線は衝突で幅が広がるのだ。分子同士がぶつかり合うと、吸収できる波長の範囲が広がる。もう少し詳しく説明しよう。温室効果ガスは特定の波長の赤外線だけを吸収する。CO₂なら15 μm付近、H₂Oなら6 μm付近といった具合だ。しかし厳密には「15.000 μmピッタリ」ではなく、「15.000 μm ± わずかな範囲」を吸収する。この「わずかな範囲」の幅を「線幅」という。
分子が静止していれば線幅は極めて狭い。しかし現実には分子は高速で動き回り、互いにぶつかる。ぶつかった瞬間、分子の振動・回転状態がわずかに乱され、吸収できる波長がズレる。これが「衝突広がり」だ。
低圧(1気圧)では衝突頻度が低く、線幅は狭い。しかし4.5気圧では衝突が4.5倍頻繁に起きるため、線幅が大きく広がる。「15.000 μmピッタリ」だけでなく、「14.95 μm」や「15.05 μm」といった、少し外れた波長も吸収できるようになる。
これで(1)で述べた飽和の問題を、部分的に回避できるのだ。15.000 μm付近は飽和していても、その両脇(14.95 μmや15.05 μm)はまだ吸収されていない赤外線が残っている。圧力広がりで線幅が太くなれば、この「隙間」を埋められる。
つまり、飽和で痩せた吸収帯の周辺を、圧力広がりが埋め戻す働きをする。結果として、同じ濃度でも高圧下では吸収できる赤外線の総量が増え、温室効果が強まる。(3)衝突誘起吸収(CIA:Collision-Induced Absorption)
これが最も興味深い効果だ。N₂(窒素)や Ar(アルゴン)のような、本来は赤外線を全く吸収しない気体でも、高圧下では衝突の瞬間に一時的な双極子が立ち、弱い連続吸収を示すようになる。
簡単に言えば、普段は赤外線を吸収しない窒素のような気体も、ぶつかった瞬間だけ温室効果を発揮するようになる。なぜこんなことが起きるのか? 分子が赤外線を吸収するには「電気的な偏り(双極子モーメント)」が必要だ。H₂OやCO₂は永続的な双極子を持つため、常に赤外線を吸収できる。しかしN₂は対称的な分子(N≡N)で、双極子がない。普段は赤外線と相互作用しない。
ところが、2つのN₂分子が衝突する瞬間、電子雲が歪んで一時的な双極子が生じる。この「衝突の瞬間だけの双極子」が、弱いながら赤外線を吸収するのだ。1回の衝突での吸収は微弱だが、高圧下では衝突が頻繁すぎて、積もり積もって無視できなくなる。4.5気圧のルブラリスでは、N₂–N₂、N₂–CO₂、CO₂–CO₂といった衝突誘起吸収が、「背景ガス」自体を温室効果に寄与させる。地球の1気圧ではほとんど無視できるが、4.5気圧では数°Cレベルの昇温に貢献しうる。
これら3つの効果をまとめると、温室効果の圧力依存性は以下のように表せる:
ΔT(P) = ΔT(1 atm) × Pα
ここで、αは「圧力指数」で、実験的に求められた値は:
CO₂: α ≈ 0.6
H₂O: α ≈ 0.5
CH₄: α ≈ 0.6
αが1未満なのは、飽和効果があるためだ。完全に線形(α=1)ではないが、それでも圧力の0.5〜0.6乗に比例して効果が増す。 ルブラリスの4.5気圧での補正係数を計算すると:
CO₂: 4.50.6 ≈ 2.52
H₂O: 4.50.5 ≈ 2.12
CH₄: 4.50.6 ≈ 2.52
つまり、同じ濃度のCO₂でも、4.5気圧下では1気圧の場合の約2.5倍の温室効果を発揮する。これは大きなアドバンテージだ。地球と同じ濃度で、2倍以上の昇温が得られる。
ただし現実はもう少し複雑だ。雲量、対流圏のラプスレート(高度による気温減少率)、そしてバンド重なり(CO₂–H₂O–CH₄が同じ波長の赤外線を奪い合う干渉効果)で、実効的な昇温は前後する。それでも、4.5 気圧という土台がCO₂ と CH₄ の効きを実効的に増幅する、という方向性は動かない。
4. 温室効果ガスの配合比
ずいぶんと前提が長くなってしまった。ようやく具体的な濃度の話に移ろう。
残ったのはCO₂、H₂O、CH₄の3つだ。この3つで+67°Cの温室効果を作り出さなければならない。しかし、それぞれに物理的・化学的・生物学的な制約がある。濃度を決める順序は、「制約が最も厳しいものから」だ。最も自由度が低いものから固定し、残った温室効果の不足分を次のガスで補う。
結論から言えば、制約の厳しさ順は:
CH₄(メタン):最も厳しい → 可燃性の壁
H₂O(水蒸気):次に厳しい → 熱力学の壁
CO₂(二酸化炭素):最も自由
この順で見ていこう。
メタン(CH₄)= 300 ppm(0.03%)
メタンは温室効果がCO₂の25〜80倍と強力だ。わずかな濃度で大きな昇温が得られる。しかし、致命的な問題がある。可燃性だ。
メタンの可燃域は5〜15%(体積比)。つまりメタンが大気の5〜15%含まれていると、火花一つで大爆発を起こす。もし CH₄ が 4〜5% も混在していれば、火を使った瞬間に爆発しうる。金属精錬も調理も不可能、文明は石器段階に縛られる。
光語を話す知的生命には、発光器官が不可欠だ。その1で述べたように、化学発光(生物発光)は局所的な高温や活性酸素を生む。もしCH₄が高濃度だと、発光するたびに周囲のメタンに引火するリスクが付きまとう。会話するだけで爆発の危険——これでは文明どころか、日常生活すら成り立たない。
よって安全側に大きく倒し、爆発下限(LFL: Lower Flammability Limit)5% の 1/100 以下、余裕を見て 0.03%(= 300 ppm)を上限値とする(LFLの1/167)。
高圧(4.5気圧)での可燃域は一般にやや広がるが、CO₂・N₂が希釈剤として働くぶん点火しづらくもなる。保守的に見ても 300 ppmなら、どんな火を使っても、どんな発光をしても実用上爆発しないレンジだ。
光化学の観点でも妥当だ。M型星(赤色矮星)は静穏時のUV(紫外線)が弱くCH₄の寿命が延びがちだが、フレアで一時的に短くなる。CH₄を高く積むと有機ヘイズ(反温室)が立ちやすく、反射増でむしろ冷える方向に振れる。
ヘイズとは大気中の微粒子の靄のことで、太陽光を反射して惑星を冷やしてしまう。土星の衛星タイタンがその典型例だ。タイタンでは大気中のメタン(約1.4%)が紫外線で分解され、エタン、プロパンなどの複雑な炭化水素が生成される。これらが重合して有機物の微粒子となり、厚いヘイズ層を形成する。その結果、地表は−180°Cの極寒になっている。
300 ppm級ならヘイズの本格形成は抑えられ、温室の純増を確保できる。光化学モデルによれば、ヘイズ形成の閾値は数1000 ppm以上にあるからだ。
では、300 ppmのメタンはどれだけの昇温をもたらすか?
1気圧換算で CH₄=300 ppm は+1〜2°C 程度(単独寄与・重なり補正込み)の昇温が目安だ。4.5気圧では圧力広がりによる補正α≈0.6として、補正係数は約2.5倍になる。一見、+2.5〜5°Cになりそうだが、そうはならない。
理由は「バンド重なり」だ。CH₄の主要な吸収帯(7.6 μm付近)は、H₂OやCO₂の吸収帯と部分的に重なる。つまり、同じ波長の赤外線を奪い合う。すでにH₂OやCO₂が吸収している波長では、CH₄を加えても追加の吸収はほとんど起きない。
この干渉効果を考慮すると、実効的な昇温は0.3〜0.5倍程度に減衰する。結果として、4.5気圧下でのCH₄=300 ppmの寄与は
+1〜2°C程度(4.5気圧下、重なり補正後)
わずかな貢献だが、ゼロではない。微量ながら確実に温室効果の底上げに寄与する。そして何より、これ以上は増やせないという制約が明確だ。
水蒸気(H₂O)= 0.9%(柱平均)
次に水蒸気を見よう。意外かもしれないが、水蒸気は強力な温室効果ガスで、地球の温室効果の約6割を担っている。地球の+33°Cのうち、約20°Cは水蒸気によるものだ。ルブラリスでも大いに頼りたい。
しかし、H₂Oには厳しい物理的制約がある。飽和水蒸気量だ。
大気中に存在できる水蒸気の最大量は、温度で決まる。温度が低いほど、保持できる水蒸気は少ない。これは洗濯物が冬には乾きにくいのと同じ原理だ。冷たい空気は水蒸気をあまり保持できない。これは熱力学の法則で、どんな生物も技術も変えられない。
クラウジウス-クラペイロンの式を使って飽和蒸気圧を計算する。平均地表温度を30°Cと想定すると、1気圧下での飽和蒸気圧は約42 hPa(ヘクトパスカル)。
ここで注意が必要だ。4.5気圧という全圧が高くても、飽和蒸気圧自体は温度だけで決まる。つまり30°Cなら、1気圧でも4.5気圧でも、飽和蒸気圧は約42 hPaで変わらない。変わるのは、それが全圧に占める割合だ。
全圧4.5気圧(4559 hPa)に対する飽和水蒸気圧の比率は:
42 hPa ÷ 4559 hPa ≈ 0.93%
つまり、30°Cの大気では、どんなに頑張っても水蒸気は1%程度までしか含めないということだ。
もちろん惑星全体は一様ではない。赤道は高温、極域は低温だ。したがって局所飽和の平均をとれば、地表付近の代表的混合比はおおむね 0.6〜1.0%(海洋上で相対湿度 60〜90% を想定)に収まる。
上空へ行くほど温度が下がり飽和上限が落ちるため、対流圏平均は 0.4〜0.6% 程度が現実的だ。
さらに高層ではコールドトラップが効く。対流圏の上端は非常に冷たく(−50°C以下)、そこで水蒸気はほぼ凍りついて落ちてしまう。地球でも同じ現象が起きている。成層圏に入ると、H₂Oは ppm〜数十 ppm 級に低下する。
したがって、水蒸気は下層で強く効くが、大気柱全体では上限が厳しい。大気全体の平均をとると、柱平均で約0.9%が妥当な値となる。
それに、湿度は必ずしも飽和量に達するわけではない。そのため、水蒸気の出どころである海に工夫をこらそう。今回の設定において、海洋面積を被覆率85%(地球は71%)と広大にする。これは別にあてずっぽうな設定ではない。
まず、ルブラリスができるまで(進化史)を考えてみよう。なぜ地球より多くの水を持ち、なぜ85%もの海に覆われたのか——それは、赤色矮星系特有の進化過程と、いくつかの幸運な偶然が重なった結果だ。
第1段階:PMS期の水獲得(形成〜数億年)
約50億年前、原始惑星系円盤からルブラリスが形成された。この時期、主星セファエルはまだ前主系列期(PMS)にあった。PMSとは、恒星が核融合を安定させる前の段階で、赤色矮星では数億年〜10億年も続く。
PMS期のセファエルは、現在より明るかった。光度は約0.008 L☉、現在の約4倍だ。明るい主星の周りでは、ハビタブルゾーン(HZ:液体の水が存在できる軌道範囲)も外側にある。計算すると、PMS時のHZは約0.085〜0.123 AUとなる。
ルブラリスの軌道0.113 AUは、このHZ内縁付近に位置していた。これが決定的に重要だった。
もしHZ内縁より内側なら、惑星は暴走温室状態になる。海が沸騰し、水蒸気が大気上層へ拡散する。そこで太陽光(紫外線)によって水分子が分解され:
H₂O + hν → H + OH → H₂ + O
軽い水素は重力を振り切って宇宙へ逃げる(水素散逸)。酸素は岩石と結合して地殻に取り込まれる。数億年で海を完全に失う——金星のような運命だ。金星もかつては海があったが、太陽に近すぎて水素散逸で失った。
逆に、HZ内縁より大きく外側なら、惑星は凍結する。水は氷として地殻に取り込まれ、プレート沈み込みでマントル深部へ運ばれる。表面の水は減少する。
しかしルブラリスはHZ内縁のギリギリに設定した。表面温度は50〜80°C程度で、液体の水を維持できる。水蒸気は大気上層へ拡散するが、飽和蒸気圧の限界があるため、上層へ到達する水蒸気量は限定的だ。水素散逸は起きるが、緩やかで、海は保たれる。
さらに、赤色矮星系では原始惑星系円盤の寿命が長い。太陽型星では数百万年で散逸するが、M型星では数千万年も残る。円盤が長く残るということは、その分、微惑星(惑星の材料となる小天体)の衝突が長期間続くということだ。これらが水・CO₂・N₂などの揮発性物質を運び続けた。
赤色矮星系の氷ライン(水が氷として存在できる境界)は、太陽系(約2.7 AU)より内側、約0.5〜0.8 AUにある。ルブラリスより外側の氷を含む天体が、重力摂動や軌道進化で内側へ落ち、衝突を繰り返す。長期間の揮発性供給——これが赤色矮星系の特権だ。この段階で、ルブラリスは地球の約0.5〜1.0倍程度の水を獲得した。
第2段階:ZAMS到達とHZ縮退(約45億年前)
数億年のPMS期を経て、主星セファエルは主系列星(ZAMS)に到達した。核融合が安定し、光度は現在の値0.002 L☉まで低下する——PMS時の約4分の1だ。光度が下がると、HZは内側へ移動する。ZAMS後のHZは約0.043〜0.061 AU。ルブラリス(0.113 AU)は、完全にHZの外へ押し出された。
受光量は急激に減少する。PMS時には温暖だった惑星は、数万年〜数十万年スケールで冷却していく。まだ大気は薄く(全圧1〜2気圧程度、CO2は10%程度)、温室効果も限定的だ。やがて海面が凍り始める。
氷は太陽光を反射する。アルベドが上昇すると、さらに冷却が加速する——これが暴走凍結だ。数千年で惑星全体が氷に覆われる。厚さは数kmに達した。全球凍結(スノーボールアース)の始まりだ。
第3段階:全球凍結と火山ガス蓄積(数百万年)
しかし、氷の下で火山活動は続いた。潮汐加熱(その2で述べた恒星と衛星の潮汐力による内部加熱)と放射性崩壊熱がマントルを駆動し、火山は噴火し続ける。
ルブラリスの火山活動は地球より活発だ。潮汐加熱があるため、火山ガスの年間放出量は:
- CO₂:2〜3 Gt/年(地球現在の約10倍)
- SO₂(二酸化硫黄):0.2〜0.3 Gt/年
- H₂S(硫化水素):0.1〜0.2 Gt/年
- HCl(塩化水素):0.05〜0.1 Gt/年
- N₂:0.1〜0.2 Gt/年(火山からの窒素供給は少ない)
これらのガスは氷を通じて、あるいは氷底火山から大気へ徐々に蓄積していく。しかし厚い氷が地表を覆っているため、風化作用(岩石がCO₂を吸収する化学反応)が完全に停止している。CO₂を除去するメカニズムがないのだ。
地球では、CO₂は以下の反応で岩石に取り込まれる:
CO₂ + CaSiO₃(珪酸カルシウム)→ CaCO₃(炭酸カルシウム=石灰岩)+ SiO₂
この反応には液体の水と露出した岩石が必要だが、全球凍結中はどちらもない。CO₂は一方的に増え続けた。
さらに、通常は雨で洗い流されるSO₂やH₂Sも蓄積する。雨が降らないからだ。
数百万年後、大気組成は劇的に変化していた。初期の大気質量を約5×10¹⁸ kgとして計算すると:
- 初期N₂:約4×10¹⁸ kg
- 追加CO₂:約7×10¹⁸ kg(光分解で10%減を考慮)
- 追加SO₂:約0.7×10¹⁸ kg
- 追加N₂:約0.4×10¹⁸ kg
- 合計:約12×10¹⁸ kg
分子量を考慮した体積比は:
- CO₂:50〜60%
- N₂:30〜40%
- SO₂:5〜8%
- HCl、H₂S:数% 全圧:約3〜4気圧
この数字を見て驚くかもしれない。地球の現在の大気(N₂ 78%、O₂ 21%、CO₂ 0.04%)とは全く違う。しかし、これは生物圏のない原始惑星では普通なのだ。
金星の大気はCO₂ 96.5%、N₂ 3.5%だ。地球の初期大気(約40億年前)もCO₂ 10〜90%だったと推定される。火山ガスが支配する世界では、CO₂が主役になる。N₂は不活性で火山からの供給も少ないため、割合は低くなる。
ルブラリスの全球凍結時、CO₂濃度50〜60%というのは、金星と地球初期の中間的な値で、物理的に妥当だ。
第4段階:急融解と超酸性雨(数千年〜数万年)
やがてCO₂濃度が臨界に達すると、状況は一変する。CO₂分圧が1.5〜2.4気圧に達すると、温室効果は氷のアルベド(反射率)を上回る。気温が上昇し始め、氷の表面が溶け始める。アルベドが下がり、さらに気温が上がる。暴走融解だ。
地球のスノーボールアース(約6.5億年前)では、CO₂分圧0.1〜0.3気圧で閾値を超えた。ルブラリスはその10倍以上のCO₂があるため、余裕で閾値を超える。数千年で氷が剥がれる。このとき、想像を絶する現象が起きた。
超酸性雨の形成
大気中の高濃度火山ガスが、水蒸気と反応する:
- SO₂ + H₂O → H₂SO₃(亜硫酸)→ H₂SO₄(硫酸)
- HCl → 塩酸(水に溶けるだけ)
- CO₂ → H₂CO₃(炭酸)
SO₂が5〜8%、HClが数%も含まれる大気から降る雨は、推定pH:1〜2——これは胃酸(pH 1.5〜2)に匹敵する強酸だ。地球のスノーボールアース解凍時でも pH 2〜3と推定されるが、ルブラリスはさらに酸性が強い。理由は火山活動が活発(潮汐加熱)で、SO₂/HCl、つまり硫酸、塩酸の素の蓄積量が多いためだ。
岩石の急速溶解
pH 1〜2の雨が岩石に何をするか。化学の授業で、塩酸に石灰岩を入れると泡を立てて溶ける実験を見たことがあるだろう。それが惑星規模で起きるのだ。
炭酸塩岩(石灰岩など):数年〜数十年で数m溶解
珪酸塩岩(花崗岩、玄武岩):通常は風化に数万年かかるが、pH 1〜2では数百〜数千年で数十m溶解
特に高地ほど降水量が多く、優先的に削られる
全球凍結前の地形には、起伏があっただろう。プレートテクトニクスで山も谷もできていたはずだ。しかし数千年の超酸性雨は、数百mの起伏を化学的に溶解した。
溶解物(カルシウムイオン、炭酸イオンなど)は河川を通じて海洋へ流れ込む。海洋は一時的に酸性化するが、やがて塩基性イオンが中和し、アルカリ性に転じる。そこで炭酸カルシウムが再沈殿し、海底に厚い層を作る。
地球では、この時期の痕跡が「キャップ炭酸塩岩」として世界中に残っている。ルブラリスでも同様の層が形成されたはずだ——それは惑星規模の化学的平坦化の証拠である。
第5段階:小プレート体制の確立(数億年)
解凍後、プレートテクトニクスが再開した。しかし、ここでルブラリス特有の進化が始まる。
潮汐加熱は均一ではなく、赤道帯と潮汐膨張軸(主星に最も近い・遠い地点を結ぶ線)に集中する。赤道±30度の帯状領域(面積比30%)では、熱流量が約0.15 W/m²に達する。これは地球の海洋底拡大帯(0.1〜0.3 W/m²)に匹敵する。
高熱流量→マントルが浅いところまで高温→岩石圏(固い外殻)が薄くなる:
- 地球の大陸:岩石圏厚さ100〜200 km
- 地球の海洋:岩石圏厚さ50〜100 km
- ルブラリス赤道帯:岩石圏厚さ30〜50 km
薄い岩石圏は小さく割れやすい。理由は単純で、岩石圏の強度は厚さに比例するからだ。薄いほどマントル対流による応力で破断しやすい。
さらに二つの要因が加わる:
要因1:低重力(0.76 g)
重力が弱いと、プレートの自重による曲げ応力が小さい。大きなプレートを維持する「剛性」が低く、より細かく分割されやすい。
要因2:全球凍結の遺産
凍結時の熱収縮で、惑星規模のクラック網が形成されていた。氷が数km厚く積もると、その重みで地殻に亀裂が入る。解凍後、これらが優先的にプレート境界として再活性化された。
結果として、直径500〜1000 km級の小プレートが30〜50個形成された。地球の大プレート(数千km級)とは対照的だ。
小プレート多数→造山運動の分散:
- 地球:7大プレート→沈み込み帯は数カ所→各所で8000 m級の山脈(ヒマラヤ、アンデスなど)
- ルブラリス:30〜50プレート→沈み込み帯が数十カ所→各所で2000〜3000 m級の山脈
なぜ個々の山脈が低いのか?
- 沈み込み量が小さい:小プレートは寿命が短い(数千万年)→沈み込む地殻量が少ない→造山量も小さい
- 分散効果:総造山量は同じでも、数十カ所に分散→個々は小規模
- 浸食が追いつく:低い山脈(2000 m級)は浸食で削られやすい 浸食とのバランス:広大な海洋(被覆率85%、後述)からの高い蒸発量により、降水量は地球比約1.2倍だ。さらに火山ガス(SO₂で弱酸性雨、pH 5程度)により、平均浸食速度は地球の1.5〜2倍になる。
- 2000 m級の山脈が浸食で消失する時間:約1000万年
- 小プレートの沈み込みサイクル:数千万年
この二つがほぼ同じ時間スケールだ。造山と浸食が定常的にバランスし、起伏は2000〜3000 mで平衡状態に達する。新しい山ができても、古い山が消え、全体の平均標高は約500 mに保たれる。
第6段階:大陸地殻形成の制約
もう一つ重要な要素がある。大陸地殻(花崗岩質、軽い)がほとんど形成されなかったのだ。
通常、地球では沈み込み帯で以下のプロセスが起きる:
- 海洋プレート(玄武岩質、密度3.0 g/cm³)が沈み込む
- 含水鉱物が脱水→水がマントルへ
- 水を含んだマントルが部分溶融→安山岩質マグマ
- さらに分化→花崗岩質マグマ(密度2.7 g/cm³)
- 軽い花崗岩質地殻が浮上→大陸形成
しかしルブラリスでは、このプロセスが途中で止まった。
原因はマントルの異常な高含水量だ。全球凍結解凍時の超酸性雨で、大量の水が地殻を通じてマントルへ運ばれた。岩石が溶解→イオンが海へ→海底堆積→プレート沈み込み→含水鉱物としてマントルへ——このサイクルで、マントルの水含有量は地球の2〜3倍に達した。
水が多すぎると、玄武岩質マグマの生成に偏る。部分溶融の温度・圧力条件が変わり、安山岩〜花崗岩への分化が進まないのだ。
結果:
地殻の大半が玄武岩質(密度約3.0 g/cm³)
花崗岩質の軽い大陸地殻(密度約2.7 g/cm³)は面積の10%程度のみ
重い地殻は浮力が小さい→低重力(0.76 g)でも高く隆起できない
低重力なら、火星のオリンポス山(21 km)のように高い山が可能なはずだ。しかし地殻が重ければ、浮力不足で高く浮かべない。ポテンシャルはあっても、実現しない——これがルブラリスの地形の本質だ。
第7段階:現在の姿(現在)
以上の進化過程を経て、現在のルブラリスが完成した。各段階での水量の変化を整理すると、この1.3倍の水が、どう分布しているか:
地形:
- 小プレート(30〜50個)→造山分散→平均標高500 m
- 玄武岩質地殻主体→浮力小→陸地面積15%
- 残り→海洋被覆率85%
海洋:
- 総水量:1.8×10²¹ kg(地球比1.3倍)
- 海面積:地球比1.19倍(表面積0.99倍 × 被覆率85%/71%)
- 平均海深:4,200 m(1.3 ÷ 1.19 ≈ 1.09倍)
数字の整合性も取れている。「水量1.3倍 × 面積1.19倍 ⇒ やや深いが広い」——85%という海洋被覆率は、複数の地質学的プロセスが重なった必然的な帰結だった。
この広大な海洋こそが、水蒸気の豊富な供給源となる。海面温度34°C、相対湿度70〜85%で、地表近傍の水蒸気混合比は0.8〜1.0%に達する。総蒸発量は地球比約1.2倍だ。
しかし水蒸気だけでは、+67°Cの温室効果は稼げない。飽和水蒸気量の壁があり、柱平均0.9%が上限だ——ここまでは物理法則の制約として説明してきた。
だが、ここで「隠し玉」が登場する。それは赤色矮星セファエル自体だ。
地球型(太陽系)では、温室効果はこう働く:
- 太陽光(可視光中心)は大気を素通りして地表を温める
- 温まった地表は赤外線を放射(約10 μm付近)
- 温室効果ガスがこの赤外線を吸収して温室効果が生じる
つまり、温室効果は「地表→宇宙」への赤外線を遮断することで起きる。これを「長波温室効果」という。
ところが赤色矮星では、話が根本的に変わる。
セファエルの放射特性を思い出そう:
- 放射ピーク:0.92 μm(近赤外)
- 近赤外(0.7-1.0 μm):可視光総量の1.3〜1.7倍
- 可視光内の配分:青5〜10%、緑20〜25%、赤65〜75%
主星からの光そのものが近赤外優勢なのだ。太陽は可視光(0.4〜0.7 μm)がピークだが、セファエルはそれより長波長側にピークがある。これは表面温度が低い(3,150 K)ためで、赤色矮星の本質的な特徴だ。
そして、H₂Oは近赤外にも強い吸収帯を持つ:
H₂Oの吸収帯
6 μm(赤外):地表放射を吸収 → 通常の温室効果
1.1 μm、1.4 μm、1.9 μm(近赤外):主星光を直接吸収 → 大気の直接加熱
地球では、太陽光の大半が可視域にあり、H₂Oの近赤外吸収帯に重なる成分は少ない。しかしルブラリスでは、主星光の60%が近赤外(0.7-3 μm)にあり、このうち20-30%がH₂Oの吸収帯と重なる。
つまり、H₂Oは二段階で効くのだ:
第1段階:入射時の直接加熱
主星からの近赤外光(1.1、1.4、1.9 μm)を大気中で直接吸収
吸収された光エネルギーは熱に変換される
大気そのものが温まる
第2段階:放射時の温室効果
温まった地表は赤外線(10 μm付近)を放射
H₂Oがこの地表赤外線を吸収
通常の温室効果
地球では第2段階しかない。しかしルブラリスでは、第1段階が追加される。これが決定的な違いだ。
「二段階加熱」——これは太陽系にはほとんどない効果だ。太陽光は可視中心で、H₂Oの近赤外吸収は弱い。しかし赤色矮星系では、主星のスペクトル特性そのものが、H₂Oの隠れた能力を引き出す。
近赤外吸収の効果を概算してみよう。
主星放射の約60%が近赤外(0.7-3 μm)で、このうち約20-30%がH₂Oの吸収帯(1.1、1.4、1.9 μm)に重なる。大気柱全体(H₂O平均0.9%)での吸収率は、光路長と濃度から10-20%程度と推定される。
入射エネルギーを213 W/m²(アルベド補正前)とすると:
近赤外成分:約130 W/m²(60%)
H₂Oによる近赤外吸収:13-26 W/m²
これを気候感度0.8 K/(W/m²)で換算すると:
+10-20°Cの追加昇温
一方、従来の長波温室効果(地表赤外線の吸収)はどうか。1気圧換算で対流圏平均0.5%程度のH₂Oは+10〜15°C程度の寄与を与える。これが4.5気圧の圧力効果(P0.5 ≈ 2.12)で底上げされ、+21〜32°Cになる。
さらに雲の効果を加味する。雲は二面性を持つ:
- 短波(主星光)では反射で冷却:太陽光を宇宙へ跳ね返す
- 長波(地表赤外)では吸収・再放射で昇温:地表の熱を閉じ込める
通常、雲の正味効果は冷却側(地球では約−5°C)だ。しかしルブラリスでは、主星光が近赤外優勢のため、雲の短波反射率が地球ほど高くない。近赤外は雲を部分的に透過するのだ。結果として長波効果が勝り、おおむね0〜+5°Cの弱い昇温側に振れる。
以上を総合すると、H₂Oの寄与は:
- 長波温室効果:+21〜32°C(4.5気圧補正後)
- 近赤外直接加熱:+10〜20°C
- 雲の正味効果:0〜+5°C 合計:+31〜57°C
これは当初見積もり(地球型モデル)より大きい。赤色矮星の近赤外優勢スペクトルが、H₂Oの効果を大幅に増幅しているのだ。
ところが、先ほど述べた活発な火山活動には、一つの問題がある。粉塵だ。
前述のように、ルブラリスは潮汐加熱により火山活動が極めて活発だ。年間0.2〜0.3 GtものSO₂を放出する——これは地球の大規模噴火(1991年のピナツボ火山)が年に10回起きるのと同等だ。
SO₂は成層圏で酸化されて硫酸エアロゾル(H₂SO₄微粒子)になる:
SO₂ + OH → H₂SO₄ → (H₂SO₄)ₙ(微粒子)
これが太陽光を散乱・反射する。粒径0.1〜1 μm程度で、可視光はもちろん、近赤外も散乱する。
Mie散乱の理論では、粒径が波長と同程度の場合:
可視光(0.4〜0.7 μm):散乱効率100%(基準)
近赤外(0.9〜1.4 μm):散乱効率50〜70%
近赤外(1.4〜2 μm):散乱効率30〜50%
「近赤外は比較的透過する」というのは可視光に比べての話で、完全に透過するわけではない。
幸い、三つの緩和要素がある:
緩和要素1:強化された雨洗浄
広大な海洋(被覆率85%)からの蒸発で、降水量は地球比約1.2倍。4.5気圧の厚い対流圏では雲への取り込みが効率的。エアロゾルの滞留時間は地球の1〜3年に対し、0.5〜1.5年程度に短縮。緩和要素2:対流混合の抑制
対流混合が強いため、エアロゾルが成層圏(散乱効果最大の領域)に到達する前に、対流圏で循環に巻き込まれる。緩和要素3:近赤外の部分透過
可視光に比べれば、近赤外は確かに透過しやすい。
以上を総合すると、定常状態での光学的厚さは:
τ ≈ 0.2〜0.4
これに対応するアルベド上昇は:
Δα ≈ 0.03〜0.06
放射平衡温度への影響は、T ∝ (1-α)1/4なので:
元の設定:α = 0.20 → T = 236 K(−37°C)
粉塵込み:α = 0.23〜0.26 → T = 228〜232 K(−41〜−44°C)冷却効果:−4〜7°C
さらに、光学的厚さτ=0.3のエアロゾル層では、近赤外の散乱率は約10〜20%だ。主星光の近赤外成分130 W/m²のうち:
13〜26 W/m²が宇宙へ散乱される
これは、H₂Oによる近赤外吸収(13〜26 W/m²)とほぼ同程度だ。つまり、H₂Oが吸収しようとするエネルギーを、粉塵が先に散乱して奪ってしまう。
結果として:
近赤外直接加熱のポテンシャル:+10〜20°C
粉塵による相殺:−5〜15°C
正味:+0〜10°C(中央値で+5°C程度)
H₂Oの総寄与を修正すると:
長波温室効果:+21〜32°C(変わらず)
近赤外直接加熱:+0〜10°C(粉塵補正後)
雲の正味効果:0〜+5°C
合計:+21〜47°C
「隠し玉」は確かに存在するが、火山性粉塵がその効果を大きく削ぐ。
以上をまとめると:
必要な総昇温(粉塵補正後):+71〜77°C(−41〜−44°C → +30°C)
CH₄の寄与:+1〜2°C(後述)
H₂Oの寄与:+21〜47°C(粉塵補正後)
合計:+22〜49°C
まだ+22〜56°Cも足りない。この不足分を、CO₂が全て担わなければならない。
二酸化炭素(CO₂)= 5.0〜5.5%
では、何%のCO₂が必要か? 結論から置く。全球平均5.0〜5.5%を標準とする。
以下に計算を示すので、気になる人は読んでほしい。
CO₂濃度の計算
基準を地球の400 ppmとし、放射強制の経験式に当てはめる:
ΔF = 5.35 × ln(C/C₀)
この式は、CO₂濃度が何倍になると、地表が受け取る実質的な熱(放射強制力)がどれだけ増えるかを表す経験式だ。Cは目標濃度、C₀は基準濃度(400 ppm)である。
候補として下限C=5.0%=50,000 ppm、上限C=5.5%=55,000 ppmを置けば:
下限(5.0%)の場合:
ln(50,000/400) = ln(125) ≈ 4.83
ΔF ≈ 5.35 × 4.83 ≈ 25.8 W/m²
上限(5.5%)の場合:
ln(55,000/400) = ln(137.5) ≈ 4.92
ΔF ≈ 5.35 × 4.92 ≈ 26.3 W/m²
これは1平方メートルあたり25.8〜26.3ワットの追加熱量という意味だ。電気カーペット(20〜40 W/m²)と同じくらいの熱が、地表全体に追加されるイメージだ。
これを気温応答に直すため、気候感度係数λ≈0.8 K/(W/m²)を掛ければ、1気圧換算で:
25.8 × 0.8 ≈ +20.6°C(5.0%)
26.3 × 0.8 ≈ +21.0°C(5.5%)
だが本惑星は全圧4.5気圧であり、圧力広がりと衝突誘起吸収がCO₂の効きを増幅する。圧力依存をPα(α≈0.6)で表すと:
4.50.6 ≈ 2.52
したがって一旦は:
20.6 × 2.52 ≈ +52°C(5.0%)
21.0 × 2.52 ≈ +53°C(5.5%)
まで跳ね上がる。
ところが、ここからH₂Oとのバンド重なりやラプスレートの調整を見込んで、実効値は0.65〜0.75倍程度に減衰する。CO₂の15 μm吸収帯とH₂Oの回転帯が重なるため、同じ赤外線を奪い合って効率が落ちるのだ。
正味は:
52 × 0.7 ≈ +36°C(5.0%)
53 × 0.7 ≈ +37°C(5.5%)
に落ち着く。
さらにCO₂–CO₂やN₂–CO₂の衝突誘起吸収(CIA)、低層厚雲による射出高度上昇(雲頂から宇宙へ熱が逃げるため、実効的な温室が強まる)の取り分が数度分上乗せされる。
CIAの寄与を概算すると、4.5気圧・N₂ 84%・CO₂ 5〜5.5%の条件下で:
- N₂–N₂衝突:+2〜3°C
- N₂–CO₂衝突:+3〜5°C
- CO₂–CO₂衝突:+2〜4°C
- 合計:+7〜12°C
全体として、CO₂=5.0〜5.5%の寄与は:
+43〜49°C(本体+36〜37°C + CIA +7〜12°C)
一旦のまとめ
二酸化炭素濃度には生物学的問題がある。それが、言語を除外せざるを得ない理由になるわけだが、あまりに文章が長くなり過ぎた。ここは一旦の区切りとして、今回のまとめに入ろう。
今回の命題は、「光語を成立させるための大気組成を、科学的整合性を保ちながら設計する」ことだった。そのため、二酸化炭素が5%程度の割合を占める大気になる。
しかし、ここで重大な問題が浮上する。
二酸化炭素5%という濃度は、地球の陸上生物にとっては即死レベルだ。人間の安全基準は0.5%(5,000 ppm)以下とされ、1%で頭痛・めまい、3%で呼吸困難、5%以上では数分で意識を失い、数時間で死に至る。産業安全衛生の現場では、CO₂濃度が1.5%を超えれば警報が鳴り、即座に退避が指示される。潜水艦内でさえ、許容上限は0.8%程度だ。
ではCO₂を減らせばいいのか? それは不可能だ。前述の通り、CH₄とH₂Oだけでは+22〜49°Cしか稼げない。残り+22〜55°Cを担えるのはCO₂しかない。5%を割れば、惑星は凍りつく。海は氷に覆われ、生命は存在できない。
つまり、ルブラリスは温室効果では成功したが、生物が住めない。そう結論せざるを得ないのか?
いや、そうではない。必ずしも、地球の生物を基準にしなければならないという訳ではない。地球の生物がCO₂ 5%で死ぬのは、彼らが0.04%(400 ppm)という極低濃度環境に適応しているからだ。しかし生化学的には、高CO₂環境に適応する方法は存在する。実際、地球の初期生命(約40億年前)は、CO₂が10〜90%もある大気で誕生し、繁栄した。
問題は「どうやって適応するか」だ。そして、その適応戦略こそが、音声言語を使えなくする鍵になる。
次回では、生物学的にこの大気でどのように酸素が生まれていったか、どう生き物が呼吸するのか、進化生物学を考えてみよう。

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