bistäžia!(こんにちは)
最近は暑くてとんでもない汗のかきかたをしますが、私は元気です(?)
今回も名無しの森の言葉であるフィウ語のちょっと細かいお話をご紹介出来ればと思います。
フィウ語では日本語で「終わり」と表すところを"milär"(ミレル), "rumaär"(ルマエル),"žinär"(ジネル)の3つの単語で区別します。
"milär"は終わりそのものを指し、"rumaär"はそのような"milär"に指向する終わり、"žinär"は周期を持つ期間の一旦の終わりのことを表します。
ナナシアさんの配信を見ている方なら良く知っていると思いますが、終わりの挨拶「ジネシュ」(žinäš)は、実はこの"žinär"の変化系なのです1。
さて、これだけでは分かりづらいので例を出してみましょう。
一回きりの終わり――つまり、徒競走のゴールや試験時間の終わりなどは"milär"で表されます。
夏祭りの後、楽しかった記憶を背後に寂しく家に帰るときは「祭りの"rumaär"」と言えるでしょう。
"žinär"は、繰り返される終わり――一年の終わりや繰り返される昼夜の境目などを表します。古代マヤ暦の世界滅亡の予言は"žinär"ですね2。
"milär"と"žinär"の使い分けはレトリックにも反映されます。音楽の終わりが"milär"で表されるなら、それは「滅多に演奏されない音楽」というニュアンスを持ち、"rumaär"で表されるならそれは「人々の間によく知られた音色」という含意を持ちます。
注意すべきなのは一日の終わりは"milär"で表されることです。私達の感覚では一日は繰り返されるもので"žinär"によって表されると考えがちですが、彼らは一日一日を繰り返しではなく、新たなものとして認識しているようです。「毎日がBrand new day」ということですね。
さて、終わりといえば、人の死も終わりということができるでしょう。
しかし、フィウ語はリングア・フランカ(言葉が異なる人々がビジネス的に用いる共通語)であり、様々な母国語を持つ人々が話しています。彼らの信仰も様々で、人は死んだら終わりと考える人も居れば、人は死んで他の存在に転生するのだと考える人も居ます。彼らの考え方によって、死は"milär"とも"žinär"とも言われるでしょう。
死は一時的な終わりか、それとも永遠の別れか。このコラムを読んでいるあなたは、どちらだと考えますか?
それでは、Žin!
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"žinär"は「一旦の終わり」を表し、"žinäš"はそれに単数対格という変化を施した形です。この変化により、単語の意味は直訳では「ある一つの一旦の終わりを」≒「暫くのお暇を」という感じに変わっています。日本語の「こんにちは」も「今日はお日柄もよく……」のような言い回しの縮約から来ているので、もしかしたらこれを含む言い方があったかも知れません。 ↩
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あれは世界の終わりではなく、周回する暦の単なる最後の日という話は有名なところですね。グレゴリオ暦が過去になり、12月31日になって頭を抱えて「世界が終わる!」と真っ青になっている未来人を私達が見ることが出来たら、そのときどう思うのでしょう? 気になって、-7時間しか寝られません。 ↩
古い順のコメント(3)
ある人生が終わりを迎えたとしても、毎日の日々と同じようにその人生は一回きりですからその死は milär だと私は考えますね。
なるほど……
こういう話を聞くと、ニーチェの永劫回帰に影響された自分の考え方を思い出します。あなたがあなたであるのは、その人生でなければならない。もしこうだったらの人生のIFが、もし本当に起こってしまった世界線の「あなた」はもはやあなたではないかもしれません。
そう考えて、ある人の人生を尊重するならば、その人の死は milär となるのかもしれません。
哲学にわかなので良くわかりませんけれど、そういえばニーチェの永劫回帰は žinär といえそうですね。ただ私としては人生が同じでもそれへの向き合い方は違うはず、って思います。何にせよ来世など知ったこっちゃないので私は適当に生きています。