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Fafs F. Sashimi
Fafs F. Sashimi

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シャリヤは革命に見られた

 ピリフィアー暦1893年にリパラオネ言語学者であるターフ・ナモヴァフが発表した「リパライン語祖語研究」では、[*ʃəwləs-]という祖語から、 xel (見る)、 xol (革命)、 xal (シャル、人名)が派生したと説いた。[*ʃəwləs-]は視覚に共通する語幹として捉えられ、ここからリパラオネ人哲学者はリパラオネ人と視覚中心主義の関係性について考えるようになっていった。

 2003年、ユエスレオネ革命が起こる。これは、ターフ・ヴィール・イェスカ率いるユエスレオネ人民解放戦線がユエスレオネ人民を悪辣な政府から解放すること目指し、旧政府に対して起こした内戦であった。

 革命後、2020年代に起こった第三政変によって、ユエスレオネ革命がイェスカ主義的な革命であったのか疑問が呈されることになる。イェスカ思想において、「革命」とは人間が能動的に起こすもの/受動的に自然的現象として受けるものとの二つの解釈が存在した。前者の立場であったユエスレオネ社会党への批判として、後者の解釈が重要視されてくると哲学者の中にはユエスレオネ革命と「視覚」の関係を議論する者が一部現れてきた。

 その代表的な論者の一人が、ファルトクノア共和国の思想家ラブレイ=デシ・ヘルツァーヴィヤである。ラブレイは、ユエスレオネ革命を「眼による革命」としてイェスカ思想のそれとは区別する。

 ラブレイによれば、「眼による革命」( xol zu kjilf fai fiurs )とは、人間普遍に存在する視覚至上主義――或いは表象至上主義に基づく暴力である。 xol (革命)が xol と呼ばれる由縁は、視覚を代表とする直観的な表象が優位に立っていたからであるとする。自ら見に行くこと( e'st xelo )が無意識的にリパラオネ人(=リパライン語人)における革命なのであり、それはヴェルテール的な無限戦争 nodelm )に至る表象のみを取り上げ、生成を意識しないような思考に駆動させられているとした。自ら見に行くことによって、自らに表象されたものをそのまま受け入れ、何も考えずに認識・理解を行い、行動を行う。そういった思考が革命派・政府軍問わずにユエスレオネ革命における犯罪を引き起こしたのである。

 ラブレイは、 xol に含まれるリパラオネ人の伝統としての「見に行くこと=革命」を見出した。それはヴェルテール的な間主体性 cilylistavisi’anascho )の過程である。ヴェルテールはアカデミスブラーデン・アルヴェルクトゥスチャフィオフェスを解決策として提示したが、ラブレイにとってこれらもまた視覚=表象至上主義的な体制としか捉えられず、ヴェルテールの議論は棄却される。
 ラブレイは、個々人の思考を表象主義的なものと別の在り方での考え方を介在させることによって(ヴェルテール的な)戦争( elm )に至らないところに維持するべきであるし、そうでなければ秩序は維持できないとした。
 ラブレイの非表象主義的思考とは「見られること」( veles la xel )に象徴される。これは「誰かに見られること」( veles xelo e'st )とは異なる。それはまた表象主義的な思考であるからである。「見られること」( veles la xel )の「見」( la xel )とは、抽象的な「見」である。そこには、イェスカ哲学的な主体と客体の合一による愛( lirfo )が見られるという。見る者や見られる者の生成以前に立ち返った「見」を受けることこそが、表象主義=無限戦争に対抗する手段なのである。

 具体的な例として、ラブレイはレシル家事件を取り上げる。レシル家事件とは、ヴェルバーレ(喜捨)を行うフィアンシャに対して支援を行い、貧しいホームレスなどを使用人として雇うなどして貧しい層を気にかけ続けていたレシル家を市民らがフラッドシャー系の中世貴族家であることを理由にフェンテショレーと断じたことにより、ある日賊徒が家に押し入り、娘のアルティを除く、その父と母、アルティの弟を撃ち殺したという事件である。
 これは革命期の不運な物語として、革命以後ユエスレオネにおいて語り継がれてきた話であるが、ラブレイはこれを二面的な点で批判する。
 まず第一にラブレイは、賊徒の表象主義を批判する。賊徒はレシル家の善行を知らずに貴族家=フェンテショレーというごく表層的な考え方で襲撃を行い悲劇を引き起こした。賊徒は目の前しか見えていなかったというわけである。
 一方でラブレイはこの物語を悲劇として認識する革命後の人々の思考も批判する。人々はこの物語に対して、彼らが「善き人」であったから「可哀想」だと思うわけであり、例えばレシル家がただの貴族家だったり、或いは悪辣な貴族家であれば、賊徒の襲撃を赦すのかという観点を持ち出す。レシル家や賊徒に関する人々の評価は表象主義に塗れているとして、批判の対象となるのである。

 ラブレイによれば、「レシル家事件」に「見られる」ためには、レシル家と賊徒に同時に「見られる」ことが重要である。つまり、理論的には「(ヴェルテール的な)他性物の見を受ける」( veles la xel fon la etili’a )ことで、自らを戦争に近寄らせないことが重要であるとする。レシル家の眼差しと賊徒の眼差しを同時に自らに引き受けることによって、ヴェルテールが説く人間の本性としての「私」( irfel mi )は「決意」( tractorvo )を乗り越えることが可能なのである。

 「レシル家事件」は我々には裁くことができない、とするのがラブレイの立場である。裁くことができないからこそ、関係者の眼差しが人々を追いかけるのである。現れを拒否し続ける営みがあり続ければ、そこには常に倫理が形成される。ヴェルテールが主張した無限戦争を防ぐための概念「最高尊厳」 vasprard )をラブレイはこのような議論の道筋で規定する。殺せない、裁けない、消せない現実(刻印, uluvo )=人間を前にして、出来ることは他者の眼差しを気にし続けることなのである。

 『異世界転生したけど、日本語が通じなかった』のアレス・シャリヤは、丁度ユエスレオネ革命に直面した世代である。親も亡くし、失望の日々を過ごしてきた彼女はいきなり目の前に現れた翠を親切に受け入れた。彼女の在り方はラブレイの主張した「見られること」だったのかもしれない。

 シャリヤは革命に見られた( xalija veles la xel. )、のかもしれない。

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