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前史 国際語運動(1874-2002)

 この章では、日本語圏に人工言語界隈ができるまでの歴史をまとめます。
 日本語圏に人工言語創作を趣味とする人のコミュニティー、人工言語界隈ができたのはインターネット掲示板での交流が始まった2005年前後だと思いますが、それ以前にも日本語圏での人工言語の創作はありました。それらの創作では、欧米の国際語運動の影響にあるもの、更に以前の哲学的言語の系譜にあるもの、視覚言語の試み、アニメ漫画電子ゲーム文化の系譜にあるものなど様々です。これらはまだ互いに影響をそこまで与えず、界隈を形成しているわけではありません。ここではそれらの言語について紹介します。

前国際語運動の国際補助語

 言語を作ったわけではありませんが、明治期には既に国際補助語の発想があったり、人工言語のアイデアの翻訳・紹介がありました。
藤間常太郎, 近代日本における国際語思想の展開, 関西大学社会学論集 1(1), 1967-04, p59

  • 阪谷朗廬の「同文同語」(1874)
    儒学者の阪谷朗廬は、阪谷素名義で1874-06に明六雑誌第10号で、世界の言語の統一について述べている。彼によれば世界の言語には「同ノ妙」「異ノ妙」の両方があるとし、文部省の進めている国語の統一を世界に広げて、国の言語を私用とし、それとは別にどの言語とも異なる、世界の言語の短所を廃して長所を集めた、「同文同語」とすれば大益があると説いた。
    阪谷素, 質疑一即, 明六雑誌第十號, 1874-03

  • 新未来記の「旅の言葉」(1878)
    Dr.Dioscoordisのユートピア小説"Anno 2065. Een blik in de toekomst"「西暦2065年」(1865)の日本語訳、近藤真琴「新未来記」(1878)に登場する世界共通語。世界の言語が自然と混ざり合ったもので旅をするときに使うという設定。
    ジョスコリデス, 近藤真琴訳, 新未来記, 1878

    • 白井新太郎のの「万国広話」(1902) 社会極致論という、漢文体で書かれた本に登場する。この本は礼楽をもって世界を統一する理想国家を作るという内容であり、その一部として世界の言語を統一することを説いている。 白井新太郎, 社会極致論 巻下, p56

国際語運動概史

 日本語圏最初の人工言語ジレンゴやエスペラント協会の発足などを説明する同時代の感覚を理解するための前提知識として、ここで欧米の国際語運動について概略を述べます。国際語運動とは1870年代末から始まった主にヴォラピュクとエスペラントによる、国際共通語となる人工言語を広めようとする運動です。ドイツの司祭のシュライヤーが作った世界語ヴォラピュクは、国際語運動を巻き起こしますが、種々の欠点からやがてエスペラントにとってかわられることになります。日本にも伝播した国際語運動は、独自の国際語ジレンゴの誕生や、今に続くエスペラント協会の誕生に関わりました。
 南独コンスタンツのカトリック司祭Johann martin Schleyer(1830-1912)は、Eiauä(アイオワのドイツ風の音写)宛てに送った手紙が綴り間違いのため戻ってきた、という農民の訴えから、特定の音声を表せる国際音声文字の必要を「キリスト教ヨーロッパにとって一つのアルファベットは一つの宗教と同じく必要である[1]」と感じ、1978年に「普遍アルファベット(alphabet universel pour la correspondance internationale et la transcription des noms étrangers)」を発明しました[1][2]。その反響が大きかったことから、自らの仕事に神の意志があると感じた彼は、翌年1879-03-31に世界最初の実用目的の世界語「ヴォラピュク(Volapük, 「世界言語」の意)」を作り始めました。既に高位のカトリック司祭として権力があった彼は、1879-05にカトリック詩学の雑誌「シオンのハープ(Sionsharfe)」で世界語の文法を公開しました。
 ヴォラピュクはすぐにドイツ語圏のカトリック教徒から共鳴者を獲得し、翌年別人による教科書が出版され、続いてオランダ、アメリカに広がり、1884、1887、1889に世界大会が行われました。第二回目から、既にヴォラピュクの国際語としての不満、すなわち語彙のほとんどを英語のみから採り、しかも恣意的の単音に縮約している、シュライヤーが所有権を主張している、等が噴出し、第三回の世界大会後、国際語運動の支持者たちはポーランドの眼科医ザメンホフの作ったより簡単な世界語「エスペラント(Esperanto, 「希望する人」の意)」に興味が移っていきました。
 これらの国際語運動は、英語が支配的な現代では極端な理想主義に感じますが、正書法や出版体制の整備されていない民族語と、ラテン語フランス語ドイツ語英語などの通用語を使い分けていた19世紀末のヨーロッパ人にとって現実味がありました。また、民族語のアイデンティティー獲得につれ、書き表される言語は更に増えていく傾向にあり、ヨーロッパ全体で使える簡単な通用語がなければやがて混乱と破綻が起こるというのは自然な危機意識でした。

[1] 藤間常太郎, 近代日本における国際語思想の展開, 関西大学社会学論集 1(1), 1967-04, p68
[2] Couturat Louis, Leau Léopold, Histoire de la langue universelle, 1903, p129

※ヴォラピュクの歴史についてはフランス語版wikipediaの記事が詳しい

日本国際語運動史

日本ヴォラピュク史

 欧米社会のこのような動きは、日本にも伝わっており、その中で日本最初の人工言語であるジレンゴが誕生することになります。日本に国際語運動が紹介されたのは、第二回ヴォラピュク世界大会(1878)の時期にあたります。刊行物でヴォラピュクを言及した事例について時系列で表2に示します。このうち、読売新聞の1888年初頭の6回の連載は多くの日本に住む人に世界語の概念を普及させました。読売新聞紙のヴォラピュクの宣伝的態度に対して、高橋五郎等が反対論を唱え、谷新太郎読売記者が更に反論を加えました[1]。やがて、より使いやすいエスペラントが紹介されるにつれ、田鎖綱紀、飯田雄太郎、丘浅次郎、下瀬謙太郎、武藤於菟などのヴォラピュク者はエスペラントに転向しました。

表2. 刊行物でヴォラピュクを言及した事例

時期 内容
1878-11 横浜の英字新聞ジャパン・ガゼットによるヴォラピュクの紹介
1886 加藤弘之博士による英語学習雑誌"The Student"第1巻第2号での紹介[1]
1887-12-30 読売新聞の新年号予告での「世界の言語を一統ならしむる」「新語の文典及辞林」の掲載予告
1888-01-03から1888-04-28 読売新聞の新年号に始まるヴォラピュクの解説記事。1ページ全部を用いたヴォラピュクの発音、綴り字、名詞の解説。4/28まで6回の解説を続ける。付録を集めると40ページの冊子となるようになっていた。
1888-01-18 加藤弘之博士による英語学習雑誌"The Student"第3巻第41号での紹介(ジャパン・ガゼットの記事の要約)

[1] 日本エスペラント運動史料 第1 (1906-1926), 1954, p1-p5
参考:藤間常太郎, 近代日本における国際語思想の展開, 関西大学社会学論集 1(1), 1967-04, p72-p74

ジレンゴ(Zilengo)

 ジレンゴは、1888年の読売新聞の連載を読みヴォラピュクを研究し始めた動物学者の丘浅次郎が、ヴォラピュクの問題点を改良するため1889年に考案、1890年に一応の完成をした国際補助語(丘は「中立語」と呼ぶ)です[1]。
 彼は、動物学を志し、学生時代から東南アジアとヨーロッパの言語を学んでいたため、多言語学習者であり、1885-1889年(17-18才)の時点で既に自分用の新文字を考案して使っていました。
 ジレンゴ名詞と代名詞は母音、形容詞はd, k, l、副詞はm, n, p、動詞はr, s, tで終わるという品詞語尾があります。ジレンゴの例文[2]を二つ以下に示します。

Doner me pano 「私にパンを与えろ」
Za ve donos libro 「私は汝に本を与えるだろう」

[1] 藤間常太郎, 近代日本における国際語思想の展開, 関西大学社会学論集 1(1), 1967-04, p75
[2] ローマ字 19(4), 1924, p112

日本エスペラント史

 欧米で国際語運動の主役ががヴォラピュクからエスペラントに移るにつれて、1888-05-02の読売新聞の記事で初めて日本にエスペラントが紹介されました。この記事の主題はあくまで一連のヴォラピュクの話題の一部であり、エスペラント、nal bino、Pasilingue、ソルレソルが紹介されました[1]。記事では、音楽語(ソルレソル)は実用性に欠け、nal binoとpasilingueはヴォラピュクの悪い真似だとし、エスペラントについては宜しいが辞書や文法書がないとして、あくまでヴォラピュクを宣伝しています。実際にこの記事は日本でのエスペラントの普及にはつながりませんでした。日本人で初めてエスペラントを学んだのはジレンゴの作者でもある丘浅次郎と考えられています。彼は1891年のドイツ留学中にフライブルグ市の書店の書棚で偶然Trompterの訳"Samenhof: Die Weltsprache Esperanto"を発見し、学習しました。
 実質的に日本にエスペラントが輸入されたのは1900年以降であり、日本でも読まれていたロンドンのReview of Reviews紙の連載や、1906-05に読売新聞に掲載された黒板博士の談話など複数の経路から徐々に知られるようになったと思われます。1906年は日本のエスペラントにとって象徴的な年であり、二葉亭四迷「エスペラントの話」丘浅次郎「世界語の将来」というエスペラントを本格的に扱った論説が登場し、黒板勝美、浅田栄次、安孫子貞治郎によってエスペラント協会が発足しました。
 1906年以降、しばらくエスペラント運動は停滞しますが、1919年、エスペラント協会はエスペラント学会に改組されます。この改組は、第一次大戦後の国際協調路線でエスペラント運動が再び注目を浴び、協会の個人主義的・非事業的性質を改め、組織的・事業的体質にするためでした[2]。
 1920年代に国際語運動は二番目のピークを迎えます。この時期に「世界語」に加えて「国際語」「国際補助語」という言葉が使われるようになりました。世界語はヴォラピュクの通称でもあります。また、国際語はエスペラントの通称でもありました。ヴォラピュクが世界の言語を統一するという考えであったのに対して、エスペラントは各民族の間に中立な共通言語を作るという考えが強く、イドなどの派生言語と共に、第一次世界大戦後の英語の影響力の拡大へのカウンターとして国際語運動として盛り上がりました。「国際語運動」もこの時期に使われ始めた言葉です[5]。1920年代以降の国際語運動は政治とのかかわりが強くなっていきます。エスペラントは本来、1905年のブーローニュ宣言で公にされた通り、いかなる命令権者も持たない、思想的に中立な存在でした。ザメンホフ自身は1913年のホマラニスモ宣言で、エスペラントが一個人を直接人類に結び付けることを願う思想を持っていましたが、それは強制されませんでした。しかし、1920年代に入り、エスペラント運動は、従来の日本エスペラント学会に沿う、新渡戸稲造などの「国際派」路線と、この時期に欧米で興った、労働者を団結させる手段としてエスペラントを捉えるプロレタリア運動と結びついたプロレタリア・エスペランチスト運動、通称「プロエス」影響下の二つ運動に分派しました。日本エスペラント学会は当初、あらゆるエスペランチストをまとめるという立場からプロエスに融和的な態度をとっていましたが、1930年代に入ると学会とプロエスは対立するようになります。この時期に柳田邦夫氏もエスペラントに関心を寄せました。
 1930年代初頭、欧米の国際プロエス運動は、全世界無民族協会(Sennacieca Asocio Tutamonda, SAT)によって組織されており、その支部として、日本のプロエス運動もプロエス協会として1930年に組織化されました。そのころ、SATでは、政治運動から距離を置く「SAT幹部派」と、ソビエト共和国エスペランチスト同盟を中心とし、プロエスの共産化を進める「SAT幹部反対派」で対立を起こしました。対立の結果、SAT幹部反対派がSATから脱退し、新組織の国際プロレタリア・エスペランチスト同盟(Internacio de Proleta Esperantistaro, IPE)を組織する形で分派し、1930年末にかけて共産化が進んでいた日本のプロエス協会もSAT幹部反対派に呼応してプロエス同盟へと改組されます。こうした共産化を嫌い、1932年から1933年にかけて、プロエス同盟創立当時のメンバーが多数プロエス同盟から脱退しました。このころからエスペラント運動は共産主義、アナーキズムに融和的な危険思想ととらえられるようになります。一方でソビエト本国でも、1930年代後半にスターリンの一国社会主義論が台頭したことにより、エスペラント運動が弾圧されるようになりました。また、ドイツでもエスペラントは反ユダヤ主義から弾圧されるようになります。
 一方エスペラント学会は、国際協調愛国主義と呼べるような独特の路線をとるようになります。エスペラント学会は1932-07に日本の内務省と満州国政府宛てに陳情書を送りました。その内容は、内務省へはエスペラントが「機会均等の実を挙げんと云う言語的国際正義の思想」とし日本国に「外交に、学術に、通商に、教育に莫大なる利益を齎す」と説き、満州国へは、いかなる民族のものでもないエスペラントが「貴建国の綱領たる機会均等の精神とまったく一致するもの」であり「貴国の如く言語を異にする諸民族の混住する国に在りては斯語の普及は国内的にも亦莫大なる利益を齎すことになる」と説くものでした。学会のこの路線は、1930年代の日本の体制が国民国家から帝国へ向かうにつれ、多民族融和を許容する、帝国的な国際主義と呼べる路線が生じ、学会もそれに適応しようとしたと読み取ることができます。特に、1930年代の日本帝国は、欧米との協調路線と満州の権益の維持拡大を両立しようとし、反ナショナリズム・民族自決を建前として掲げる満州国という特殊な植民地を抱えていたという、国際語と愛国思想の共存する特殊な条件がありました。しかし、1930年代後半になり、日本が「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」路線をとるにつれ、日本帝国の一部としてのエスペラントの役割もなくなっていきます。
 こうして、1920年代の一次大戦と日露戦争後、大正時代の国際協調主義の高まりから、1940年代の第二次世界大戦までに、日本のエスペラント運動は、国際協調愛国主義、プロレタリア主義、共産主義の主に三つの派閥に分かれたのち、そのいずれもが衰退しました。
 エスペラント関連の年表を表3に示します。

表2. 日本のエスペラント関連の年表

時期 内容
1888-05-02 読売新聞は日本でエスペラントを扱う最初の新聞記事「世界語の評」を掲載。この記事ではスードレー博士の音楽語(Solresol)S. Verheggen博士のnal bino、スタイネル博士のPasilingue、エスペラント氏の言語の四言語を紹介[1]。
1891 丘浅次郎が1891年のドイツ留学中にフライブルグ市の書店の書棚で偶然Trompterの訳"Samenhof: Die Weltsprache Esperanto"を発見し、日本人として初めてエスペラントを学習する
1900 フランス留学中の樋口勘治郎がトゥールーズ大学のRoul博士に勧められてエスペラントを学習[1]
1902 長崎の英字新聞Nagasaki Pressに海星中学物理化学教師のAlphonse Mistler氏がエスペラント紹介記事を寄稿する。生徒にも教える。
1905 広島高師教授の中目覚がブリュッセル市で偶然エスペラント関連書数冊を入手し学習する。後に欧州でエスぺラントを学んだ大野直枝教授と1909-01に広島エス倶楽部を設立[1]
1902-05から1902-10 ロシアウラジオストク滞在中の二葉亭四迷にエスペラント会会長のPostnikov氏がエスペラント語の教科書の日本語訳出版を依頼、1906年に「世界語エスペラント」として出版される
1903 Nagasaki Pressの記事を読んだ東大助教授の黒板勝美が学習を開始、後にエスペラント運動に加わる
1903年ごろ ロンドンの新聞Review of reviews誌に毎月エスペラントの記事が載る。日本で広く販売されていたため、この時期に日本の知識階級にエスペラントが広く知られるようになったと思われる。
1905-04 東京外語英語主任教授の浅田栄次が卒業式に流暢なエスペラントで挨拶を行い、参列者を驚かせる
1905ごろ 安孫子貞治郎がエスペラントを学ぶ
1906-05 黒板勝美博士の談話の筆記が読売新聞社の薄井秀一氏の好意で掲載される
1906-06-12 黒板勝美、浅田栄次、安孫子貞治郎により、日本エスペラント協会(JEA)が発足(1919にJEIに発展, 1926年に消滅)。
1906-07-21 二葉亭四迷が、神田彩雲閣から「世界語エスペラント」を発行[3]
1906-09-08 JEAにより第1回日本エスペラント大会が東京で開催
1906-11 丘浅次郎が中央公論に「世界語の将来」を寄稿しエスペラントを本格的に紹介。丘は後に、Idiom Neutral, Idoの研究も行う
1919-12-20 小坂狷二により、任意団体日本エスペラント学会(JEI)が発足、JEAの後継となる。1926-07-02に財団法人化。
1922 宮沢賢治がエスペラントを学ぶ
1930-03 東京のプロレタリア科学研究所で第一回エスペラント講習会が行われる。学習者は後に研究ロンド(研究クラブ)を作りプロエス協会へ発展する。
1930-07 日本プロレタリア・エスペランチスト協会(プロエス協会)発足
1930-10 プロエス協会が日本プロレタリア文化連盟(KOPF)に加盟、共産化が進行
1930-12 プロエス協会に日本共産青年同盟が浸透を始める
1931-01-18 プロエス協会を全国的に広めるため、プロエス同盟が発足
1932-07 エスペラント学会が内務省と満州国政府宛てに陳情書を提出。内務省へは「機会均等の実を挙げんと云う言語的国際正義の思想」とし日本に「莫大なる利益を齎す」と説く。満州国へは「貴建国の綱領たる機会均等の精神とまったく一致するもの」とし同様に「莫大なる利益を齎す」と説いた。
1934 宮沢賢治が小説「ポラーノ広場」を発表。岩手県をエスペラント風に呼んだ「イーハトーヴォ」と呼ばれる空想世界が舞台。
1939 日本エスペラント協会により、最初のエスペラント学力検定試験が行われる1
1941-03 動物学者の丘浅次郎が日本エスペラント協会の会誌"La Revuo Orienta"1941年3月号への寄稿"Antaŭ kvindek jaroj"で自作の人工言語ジレンゴによる文を発表。
1946-06-23 小松文夫を委員長に日本エスペラント協会(2)が発足。1906年に発足したものとは別。1950-12-05に消滅

参考文献・サイト

関連リンク

第二次世界大戦後の日本の人工言語

 第二次大戦前で日本で作られた人工言語はジレンゴのみで、それ以外は全て第二次大戦後のものです。

国際語運動の長い黄昏・多様化する人工言語

 第二次大戦後には、散発的に国際語運動に触発された国際補助語が発表されました。この時代、「国際語」は英語を意味するようになったので、世界語のような言語の統一、国際語運動のような民族間の中立共通語の試みはいずれも現実的でなくなっていきました。そのような時局で、国際語運動も、実際に普及を目指す政治運動的性質から、自らの思想や理念を体現する創作という実験的、芸術的性質が強くなっていきました。この時代に国際語運動の系譜にあるが実験的であるジレンゴ、コンセプトアートに近いピクトグラムを用いた視覚的共通語のLoCoS、平和や多文化理解の思想を体現する絵文字言語である地球語、世界の言語からまんべんなく単語をとった国際補助語のノシロ語が誕生しました。
 また、国際語の文脈にない人工言語も登場しました。京大式レキシグラムは霊長類研究のために設計された視覚言語です。ゼビ語は商業ゲーム作品が演出のためにある程度単語を持つミニマル言語を作った例であり、ムンビーナ語は、アニメ・漫画文化の影響にある個人が創作した、趣味目的の言語でした。
 これらの言語は、まだそれぞれ個別の文脈にありますが、全体的な傾向の変遷がみられます。ボアーボム、LoCoS、地球語、ノシロ語はいずれも国際補助語ですが、ボアーボムが話者の拡大に積極的であるのに対して、LoCosや地球語、ノシロ語は概念の提案であり、学習会などが開かれているわけではありません。また、地球語とノシロ語はホームページでの普及活動を行っています。このように、時代が下るにつれ、同じ国際補助語でも、内向的傾向が強まります。
 以下で各言語を個別に紹介します。

  • ボアーボム(Babm)

    ボアーボムは哲学者でエスペラントを学んだ岡本普意識が七十歳のころ(1956年ごろ)に製作を始め、1960年に文法と辞書[2]が出版された国際補助語です。ローマ字を音節文字として用いる独特の表記法があります。例えばbは「ボ」、jは「ジ」、aは「アー」というように読みます。子音字は短音、母音字は長音です。固有語や外来語の場合は、それをローマ字で書いた後ボアーボムの読みで読むため、全ての単語を一文字ずつアルファベット読みで読み上げているような感覚があります。名詞はシステマチックな構造を持ち、三つの短音字と一つの長音字からなります。このうち、最初の短音字は生物や物体など物のカテゴリーを表しており、国際語運動以前の百科事典的哲学言語と似ています。

    参考文献

    [1] J&Jコーポレーション, 日本及日本人 10(10)(1402), p83
    「ボアーボムが生まれるまで」と題した岡本普意識の回顧録
    [2] 岡本普意識, 世界語ボアーボム : 文法と辞典, 1960

    関連リンク

  • LoCoS

    LoCos(ロコス, 絵ことばLoCos)は、グラフィックデザイナーの太田幸夫が1971年に雑誌グラフィックデザイン42号に発表した、絵文字を用いる言語です。LoCoSの絵文字は、19種類の「絵素」と呼ばれる単純な図形から構成され、絵文字の形と発音、意味が対応するように設計されています。太田幸夫氏は、国際標準となったExitのピクトグラムを製作したことで知られています。

    関連リンク

  • 地球語

    地球語は、日系米国人で画家・染色家のYoshiko McFarlandが1988年に構想した絵文字のみの言語です。彼女は、美術館で見た1500年前の中国の書が読めたことに感銘を受け、同じ漢字を、中国人と日本人がそれぞれの母語で読んで理解できるように、読みを持たない絵文字によって、世界中の人がそれぞれの母語を維持しながら相互理解することができるのではないかと考えました。彼女は渡米二年目(1988年)に地球語の制作を開始し、平和が到来する、というコンセプトを持っています。

    関連文献

    • アドア1992年1月創刊号北米毎日新聞社 原案を公開した
    • 月刊 言語 2006年 11月号 紹介記事がある
    • https://www.earthlanguage.org/ 公式サイト
  • ムンビーナ語

    ムンビーナ語はPHALSAIL氏が1980年ごろから作っている170程度の絵文字によるミニマルな架空言語(PHALSAIL氏は「捏造言語」という)です。ホームページでの初出は2003-05-24まで確認できます。ホームページでは1990年代風のアニメキャラ風のドット絵による漫画を交えた文法などの解説を見ることができます。

  • ゼビ語

    ゼビ語は、1983年にナムコ社が発表したアーケードゲーム「ゼビウス」の演出のために作られた言語で、400語ほどの単語が作られています。「NG」第3号にゼビ数字(記数法、表記、一覧、英語スペル、発音)が載っています。1988年の「ゼビウス ファードラウト伝説」でゼビ文字が追加され、2007年発売予定だったNew Space Orderの開発中に新ゼビ語が作られ、旧ゼビ語と区別されます。

  • 京大式レキシグラム

    京大式レキシグラムは、京都大学霊長類研究所が1980年代半ばにジョージア州立大学言語研究センターで1970年代から使用されていた霊長類研究のための人工言語ヤーキッシュ(Yerkish)で用いられる絵文字「レキシグラム」から派生した絵文字言語です。チンパンジー「アイ」の言語訓練に使われました。

    関連リンク

  • アーヴ語

    アーヴ語は森岡浩之による小説「星界の紋章(1996)」シリーズに登場する言語です。ゼビ語は単語が設定されましたが文法はありません。それに対してアーヴ語は日本において創作物の設定として機能する言語が作られた最初の例です。アーヴ語は日本語から派生したはるか未来の言語という設定で、格助詞が名詞と縮約・融合して格変化が誕生し屈折語となっています。作者による別の短編集「夢の樹が接げたなら」では、普通名詞を持たない言語を話す宇宙船で生まれた子供というアイデアの話がある。日本製OSであるTRONの文字セットにはアーヴ語の文字アースが登録されている。

  • その他、演出用の言語

    ※2000年以降は次の項で扱う

  • 換字式でない単語が設定されている言語

    • パンツァー語(1995):ゲーム「パンツァードラグーン」シリーズに登場する言語。ラテン語、ドイツ語、日本語がベース
    • ファントマイル語(1997):ゲーム「星のクロノア」に登場
    • クロノア語(1997):ゲーム「星のクロノア」に登場するファントマイル語の変種
  • (おそらく)換字式暗号

    • ルフェイン語(1987):ゲーム「ファイナルファンタジー」に登場する古代人ルフェイン人が使う言語。
    • ソラリス語(1998):ゲーム「ゼノギアス」に登場する。フスハーのラテン文字表記を逆さにしてドイツ語読みをしたもの
    • ゲルド語(1998):ゲーム「ゼルダの伝説シリーズ」に「時のオカリナ」から登場する
    • カントー文字(1998):ポケットモンスターピカチュウ イーブイに登場する文字
    • アナグマ語(1999):ゲーム「聖剣伝説 LEGEND OF MANA」に登場する月夜の町ロアの「精霊の光」にてランプを売る際に会話するアナグマの言葉
  • わずかなセリフが存在する

    • 河童語(1927):芥川龍之介の小説「河童」に登場
    • ゼントラーディ語(1982):TVアニメ「超時空要塞マクロス」に登場
    • ククト語(1983):TVアニメ「銀河漂流バイファム」に登場
    • ラピュタ語(1986):スタジオジブリのアニメ映画「天空の城ラピュタ」に登場
  • 歌詞のために即興的に作られた言語

    • 梶浦語(1993)
    • ゴワザーム語(1994)
    • MONGHANGの曲の言語(1996)
  • 適当な響きのおかしさを芸にするもの

    • ハナモゲラ語(1972)
    • ちゃんたら語(1986)
    • ひんたぽ語(1986)
    • パピ語(1987)
    • ルー語(1989)

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