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Fafs F. Sashimi
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#08 生々しさを隠蔽するコード

Inspired by The reality is sprouting of stringy bok choy.
この文章はフィクションです。
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インド映画では、アクションの見た目を鮮烈にするために目を背けたくなるような過激な表現が取られることがある。
2024年に公開された "The Greatest of All Time"(Venkat Prabhu監督)は、日本においても放映された大人気俳優ヴィジャイの比較的新しい作品であり、とても面白い作品として私は鑑賞させてもらった。

一方で、交通事故における主人公の子に関する描写や人質となった女性を傷つける描写などでは、(個人的な観点にはなるが)直視したくないような過激で猟奇的表現を一部含んでいる。
このような猟奇的かつ直接的なシーンは、日本が作った映画ではさほど見られるものではない。

文化ごとに日常の生活空間から生々しさを隠蔽するコードは異なる、と前から思っている。
日本のアニメとアメリカのアニメを比較対照した際によく分かるのは下品さの程度にも文化性が現れるということである。
具体的に言うならば、「クレヨンしんちゃん」(日本)と「フィニアスとファーブ」(アメリカ)を見比べてみれば、私の言いたいことは何となく分かるのかもしれない。

このような生々しさを隠蔽するコードは、言語の上では婉曲表現という形で表現される。「便所」という直接的表現を使わずに、「お手洗い」という婉曲表現を使ったりすることが例としてあげられるだろう。しかし、より議論されづらいのは生々しさをどこまで許容するかの度合いである。婉曲表現で避けているものの差というものがそこに現れるのであるから、これもまた重要な表現の文化となっているのだ。

リパライン語の生々しさとは?

まず最初にあげられる生々しさは venthtard という単語である。
これは「頭部に爆薬を巻き付けて爆発することによって処刑する刑罰」のことである。ヴェントタード刑は身体修復能力を持つケートニアーと呼ばれる種族に対して行われる刑罰であり、現代では死刑を一般的に指す言葉として残っている。頭を爆破するというのは、ゴア表現としてとてつもないものではあるが、リパライン語の表現としては結構一般的にフィクションのケートニアー同士での戦闘などで使われており、婉曲表現で避けられないものとして一般的になっている。

そして desxupuserges という単語も文化面を表す単語として忘れられないものである。
この単語の語幹 desxupuse は、タンニンが多く含まれるどんぐりを食用に使うために煮たときに出た煮汁と木の皮やどんぐりの帽子などを再度煮て作る液体のことである。これの動詞化したものが先の単語ということになる。
この単語は本来は「動物の皮を鞣す」という意味の動詞なのだが、人に対して使うと「叩きのめす」や「ボコボコにする」という暴力的な意味に転化する。この単語も一般的に口語で使われる単語である上に、比喩表現をわざわざ使って暴力的な表現を生み出しているのが重要な点である。

また、本来「セクハラをする」を意味する fhistirl, phistil という単語は一種の盛り上げ言葉や砕けた挨拶として利用されることがある。これは英語の "fuck", "shit" などを想起すればそれほど異常なことではないと分かるだろう。
そして、これに関しては更に崇高で高度な理念と理想が含まれているのであるが、ここに記すにはこの余白は狭すぎる

まとめ

個別言語学研究においては、生々しさを示す表現の代替であるところの婉曲表現を調査していることが多い。
これについての素晴らしい研究は、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の梶茂樹先生による「ニョロ語の婉曲・比喩表現」が記憶に良く残っている。「アレン・ヴィライヤの言語調査録――“先生”は荒事に好まれている」を書くに当たって、参考にしたものである。
一方で今回では、逆の視点である生々しさをそのままにしておくレベルというものに焦点を当ててみた。生々しさというものをどのようなものとして捉えるか、そのレベルをどのように規定するのかに関してはまだ問題は残るが、今回はある言語とその他の言語との対照という方法によって差異を見出すという方法を用いた。
将来的な発展として、リパライン語の生々しさをコーパス的な側面からも見出すことができれば良いとも考えている。そうすれば、実際に書かれている文章に表れる生々しさの実態もより分かりやすくなることだろう。

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